コラム:ビジネス特急「こだま」の誕生

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赤とクリーム色の「こだま」形国鉄特急電車。本州や九州の幹線ではほぼどこでも見られたこのスタイルの列車の元祖である151系電車誕生の歴史に迫ります。

1.誕生の背景

今では「特急電車」はごくありふれた存在になっているかもしれませんが、昭和31(1956)年に東海道本線がはじめて全線電化した当時はまったく予想もできないものでした。それはまだ東海道新幹線が誕生する8年ほど前のことであり、その年の11月19日に電気機関車で牽く客車特急「つばめ」と「はと」がデビューしました。

EF58 93
特急「つばめ」をけん引した電気機関車、EF58。そのエメラルドグリーンのカラーリングから、「青大将」とも呼ばれる。

By Lover of Romance – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4107267

しかし、この客車特急列車はその最後尾に展望車が連結されていた関係で、折り返す際は機関車を前から後ろに付け替えるのではなく三角線(東京の場合は、品川→大崎→蛇窪(※ 西大井の大崎寄りの地点、横須賀線と湘南新宿ラインの分岐点)→品川)で編成ごとそっくり向きを変える必要があって大変手間がかかりました。

また、高速運転にはブレーキ性能に課題が残る上に、重量が集中する機関車の重みに耐える軌道強化工事をしようとすると5年の工期と膨大費用がかかることも明らかになってきました。そのため、かねてから島秀雄技師長が主張していた動力分散方式の電車特急が設計されました。

2.ビジネス特急の誕生

昭和33(1958)年11月1日。20系「ブルートレイン」あさかぜ号のデビューから1か月後のその日、ダイヤも工夫されて東京から大阪への日帰り出張も可能にしたビジネス特急「こだま」が東京―大阪・神戸間にデビューしました。東京―大阪間は最高時速110km/h運転により6時間30分で結ばれ、それまでの客車特急列車より所要時間が1時間短縮されたのです。

運転初日、東京駅では十河信二総裁が、神戸駅では石井昭正常務理事が、そして大阪駅では島秀雄技師長がそれぞれテープカットしました。

島技師長の次男で、0系新幹線台車の設計や台湾高速鉄路顧問を歴任された島隆氏は、父親である島技師長についてこのように語られています。

一番うれしかったのは『こだま』が運転を開始したときだったと言っていました。あれは本当に苦労して作った。新幹線はその考えを延長したようなものだから。

島英雄技師長による「第2こだま」テープカット
「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.79

3.ビジネスとしての成功

ビジネス特急「こだま」はたちまち大人気となり、早めにきっぷを買わないと指定席が取れないという事態に。「ビジネス特急」なのにビジネスの急用で指定席券が買えない乗客のために、国鉄は急遽当日券を用意するほど大盛況となりました。

国鉄のイメージ向上に加えてこのビジネス特急の収支は年間で13億円の増収となり、わずか1年で投下資本の9億円を回収するという快挙を成し遂げたのです。

 

アイキャッチ画像:「国鉄特急電車物語」福原俊一著 JTBパブリッシング p.74

「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング

「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB