国鉄の歴史(6):島秀雄技師長の登場

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夢の超特急を作るという大事業に命を賭けた十河総裁には、優秀な技術者が必要でした。十河総裁にとって、その大役を担うことができると確信できるのはこの人を置いてほかにいませんでした。

6-1.背景

島秀雄の父、安次郎は鉄道省技監を務め、戦時中の弾丸列車計画では幹線調査会特別委員長として活躍しました。大正の名機9600型蒸気機関車は、島安次郎の設計によるものです。

島秀雄も鉄道省で有名なD51蒸気機関車をはじめ、C53、C59など数々の蒸気機関車を設計しました。戦後は工作局長として湘南電車などをプロデュースしましたが、国鉄の中で責任のなすりあい体質に嫌気がさし、桜木町事故をきっかけに国鉄を去っていました。その後は、住友金属工業で取締役となっていました。

6-2.新幹線建設予備調査

話を十河総裁就任直後に戻しましょう。十河総裁は、新幹線建設にあたって予備調査を命じます。ところが、総裁周辺の人たちはこのプロジェクトを「夢物語」と考え、まともに取り組んでくれません。当時の技師長であった藤井松太郎から提出された報告書はこれまでの歴史や弾丸列車計画の概要を簡単にまとめただけの、”やる気”のないものでした。

十河総裁が藤井技師長を呼びつけ、「技師長にはもっと視野の広い人に働いてもらいたい」と告げると、藤井は「私も同感です」とあっさり技師長職を降りてしまいました。ちなみに、のちに第7代国鉄総裁になった藤井は、引退した十河のもとを訪ねてこの時のことを詫びました。

6-3.親父の弔い合戦をしないか

十河総裁は、住友金属の広田社長に島を国鉄のアシスタントとして来てもらいたいと考えている旨伝えました。広田社長は島に、国鉄総裁からの頼みだし、あなたさえ良ければ国鉄に行ってほしいと伝えました。しかし島は、すでに国鉄から去ったのでまたそこに戻るつもりはない、外部から応援すると断りました。十河総裁は諦めずに広田社長と島秀雄本人を何度も説得にかかりました。そして、十河総裁は島にこう言いました。

君の親父は広軌改築に苦労を捧げながら、ついに実現できず恨みをのんで死んでいった。君は親の遺業を完成する義務がある。親父の弔い合戦をしないか。

ついに島秀雄は十河総裁の情熱に動かされ、昭和30(1955)年12月1日、国鉄副総裁格技師長として就任したのでした。

 

国鉄の歴史(7):春雷子

 

アイキャッチ画像:[昭和34年頃の島秀雄] 「「夢の超特急」、走る! 新幹線を作った男たち」 碇 義朗著 文春文庫 p.19

「新幹線を作った男 島秀雄物語」 高橋団吉著 小学館

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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髙橋 竜(たかはし りゅう) 横浜市生まれ、ロサンゼルス育ちの49歳。法政大学経済学部卒。所属は、某外資系IT企業と COQTEZ ブランドをプロデュースする合同会社ビイエルテイ 代表。ボランティアとして、福岡市に保存されている国鉄ブルートレイン車両「ナハネフ22 1007」の保存修復活動を2009年より継続中(任意団体 ナハネフ22 1007修復プロジェクト委員会 会長)。横浜市在住。趣味は鉄道(メインはやはり国鉄)、料理、ドラム。愛が込められたプロダクトデザインとしての国鉄車両とあらゆる意味での持続可能性が高い経営という組み合わせの実現を夢見ています。

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