国鉄の歴史(9):東京-大阪三時間の可能性

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5回にわたり国鉄内部で開かれた、東海道線増強調査会。「新しいことはやらない方が無難」という支配的な風潮に、会長であった島技師長はこう考えました。

今までは国鉄自身で物事を決め過ぎていた。世間全体で判断しなければならない。

9-1.講演会を企画

調査会打ち切りから3か月後の昭和32(1957)年5月30日に向けて、東京・銀座の山葉ホールで鉄道技術研究所創立50周年を記念した講演会が企画されました。十河総裁は、就任してからこの鉄道技術研究所に予算を大きく割り振り、研究の充実を図っていました。

そして、講演会のタイトルは「超特急列車、東京―大阪三時間への可能性」。当日は朝からあいにくの雨になりましたが、500人収容の会場は満席となり、入場制限まで起きるほどの大盛況となりました。

9-2.内容

この講演会はあくまでも国鉄ではなく鉄道技術研究所の主催でしたが、十河総裁がこうした鉄道技術者による研究開発提案の場を設けることを促した結果でした。

内容は、以下の通り。

  • 新たな高速鉄道の提唱 (研究所長・篠原武司)
  • 車両について (車両構造研究室長・三木忠直)
  • 線路について (軌道研究室長・星野陽一)
  • 乗り心地と安全について (車両運動研究室長・松平精)
  • 信号保安について (信号研究室長・河邉一)

当時のこの講演会を取り上げた新聞記事には、「この構想は東京―大阪間約五百キロを平均時速二百キロで突っ走るもので夢のようだが、(鉄道技術研究所)大槻勝雄次長も『技術的には、いますぐにでもできる。ただ日本の工業レベルからみて、たとえ金があっても実施のためには試験期間が必要なだけだ』といっている」と書かれました。

9-3.反響

それぞれの講演者は、聴衆が分かりやすいように模型やスライドを使って説明しました。さらに最後に上映された、フランス国鉄がその2年前に電気機関車が牽く列車で最高時速331キロを出したときの記録映画は、そこへ居合わせた人々に強烈な印象を残しました。この講演会を境に、世論はメディアも含め否定的な見方から夢の超特急実現に向けての期待感に切り替わったのです。

こうして予想以上の大成功を収めた講演会でしたが、その翌日の十河総裁は不機嫌でした。なぜだったのでしょうか。

 

国鉄の歴史(10):有法子

 

アイキャッチ画像:[十河総裁の鶴の一声で、山葉ホールの公演を国鉄本社で再演した「御前会議」。総裁、技師長を筆頭に国鉄の全理事が列席した。写真は、三木が広軌新線の「軌間について」を発表しているところ。] 「新幹線を作った男 島秀雄物語」 高橋団吉著 小学館 p.164

「新幹線50年の技術史 高速鉄道の歩みと未来」 曽根 悟著 講談社

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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髙橋 竜(たかはし りゅう) 横浜市生まれ、ロサンゼルス育ちの49歳。法政大学経済学部卒。所属は、某外資系IT企業と COQTEZ ブランドをプロデュースする合同会社ビイエルテイ 代表。ボランティアとして、福岡市に保存されている国鉄ブルートレイン車両「ナハネフ22 1007」の保存修復活動を2009年より継続中(任意団体 ナハネフ22 1007修復プロジェクト委員会 会長)。横浜市在住。趣味は鉄道(メインはやはり国鉄)、料理、ドラム。愛が込められたプロダクトデザインとしての国鉄車両とあらゆる意味での持続可能性が高い経営という組み合わせの実現を夢見ています。

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