国鉄の歴史(16):十河総裁辞任

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十河総裁が奇跡の再任を決め、幾多の障害を乗り越えながら夢の超特急建設が進んでいた国鉄でしたが、大事件が起こります。

16-1.三河島事故

乗客乗員死者160人、重軽傷者325人。昭和37(1962)年5月3日21時40分、常磐線三河島駅構内で貨物列車が停止信号を無視して進入し脱線。そこに、下り電車が衝突。乗客は、電車から飛び降りて駅に向かおうと線路を歩き始めたところに、その5分後さらに上り電車が突っ込み脱線するという三重衝突事故の大惨事が発生しました。

十河総裁は翌日早朝、事故現場と生存者が収容されている病院を訪ねた後、遺体が安置された浄正寺へと急ぎます。

申し訳ありません。

棺の前で蚊の鳴くような声でつぶやき手を合わせ、遺族に向かってすりつけんばかりに頭をさげ、何度も涙を拭く十河総裁。

馬鹿野郎!泣いて見せれば死人が戻るのか!

遺族たちからは罵声がとびます。

俺が一軒一軒謝って歩く。

そう言って、十河総裁は翌日から秘書と共にすべての遺族の家を回り始めます。

堪忍してください。

十河総裁は仏前にぬかずき、畳に額を30分近くもこすりつけて嗚咽しました。

母子家庭でたった一人の子供を失ったある母親は、涙を流しながらひたすら謝り続ける十河総裁にこう語りかけました。

国鉄がこれほど親切にして下さるのですからもう恨みません。ただ切れた片足が見つからないのが心残りです。

これを聞いた十河総裁は周りもはばからず大声で泣きました。

その後、十河総裁はこの事故の責任を取って辞任すべきではという声が上がりましたが、むしろ被災した遺族の多くは十河総裁の留任を求めました。このようなことは、国鉄でかつて起きたことがありませんでした。

16-2.予算不足の発覚

新幹線調査会で公式に提示された東海道新幹線総工費は、1,725億円。実際には少なくとも3,000億円かかることは分かっていました。(第12話 参照) しかも、当時は高度経済成長期であったために物価が相当上がっており、改めて工事費を試算すると3,800億円になりました。大石重成 新幹線総局長の判断により、この総額は2,926億円という数字に書き換えられました。昭和38(1963)年3月30日の国会本会議でこの補正予算が通るのですが、実は800億円少ないということが十河総裁に知らされるのはその翌月のことでした。

ところがこの情報を何者かがリークし、5月2日に朝日新聞が「予算超過約800億円」(※今の貨幣価値で約1兆円)という記事を掲載します。

16-3.辞任決定

三河島事故にこの予算不足の発覚が追い打ちとなり、2期目の任期が切れる昭和38(1963)年5月19日で十河総裁の辞任は決定的になりました。

新幹線開通まであと1年半でした。

国鉄本社を去る十河信二総裁
1963年5月20日、引き継ぎを終え、国鉄本社を去る十河信二。国鉄本社前にて – 「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ p.387

 

国鉄の歴史(17):東海道新幹線開業

 

「国鉄の基礎知識 配線から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

 

 

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