国鉄の歴史(22):分割民営化への道

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昭和40年代、ストライキが頻発して遅れや運休が頻発した乗客の怒りが頂点に達し、ついに暴動が起きてしまいます。

昭和48(1973)年3月13日、高崎線上尾駅で起きたいわゆる「上尾事件」。ダイヤが乱れて列車に乗り切れなかった約1万人の通勤客が暴徒と化し、電車や駅設備、信号機などをボコボコに壊してしまいました。この年の9月19日、磯崎総裁は辞表を提出し、受理されました。総裁職を引き継いだのは、藤井松太郎でした。

藤井総裁は、十河総裁時代に技師長職を降りましたが、その後島秀雄の後任として技師長に復帰していました。(6-2.新幹線建設予備調査 参照)

22-1.スト権スト

そもそも、国鉄は公共企業体であり、その職員は民間会社である私鉄とは違って本来ストライキを起こす権利を持っていなかったので、毎年行われていた国鉄職員によるストライキは、そのたびに法を犯しているということになっていました。そこで、国鉄の労働組合は職員の争議権、つまりストライキを起こす権利を「奪還」しようとしました。そのためにストライキを行う。これが、「スト権スト」というわけです。

藤井総裁は、労使関係をなんとか改善しようと必死に努力し、法律で禁止されている国鉄職員のスト権を条件付きで認めたいという見解を示したのですが、これが時の政府有力者によく思われなかったようです。政府側から人員・給与削減などを厳しく要求された藤井は、ついにそのプレッシャーに耐えかねて昭和51(1976)年2月に辞任します。

22-2.国鉄再建法

次の総裁には、大蔵事務次官であった高木文雄が就任しました。

昭和55(1980)年11月27日、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(国鉄再建法)という法律が公布・即日施行されます。これは、昭和60(1985)年度までに国鉄経営の健全性を取り戻し、収支の均衡を図る基盤を確立すること。そして、そのために、国鉄が独自に廃止申請が行える条件を設定し、採算性の低い地方ローカル線を法の力により廃止することが盛り込まれました。

こうして、鉄建公団が国鉄の収支に関係なくローカル線を建設し続けるという流れを止めることが可能になりました。

22-3.国鉄叩き

しかしながら、この頃までに世間における国鉄のイメージはすっかり低下し、新聞やテレビは一部の国鉄職員の醜態にフォーカスして取り上げました。こうして、分割・民営化への世論の流れはもはや止めることができなくなって行くのです。

いよいよ、このシリーズ「国鉄の歴史」は次が最終回となります。

 

国鉄の歴史(終):老兵の消えて跡なき夏野かな

 

アイキャッチ画像:[上尾事件。怒った乗客が窓ガラスを割るなど暴徒化] 「国鉄の基礎知識 配線から解体まで [昭和20年―昭和62年]」所澤秀樹著 創元社 p.198

「昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実」 牧 久著 講談社

「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社

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