夢の超特急

国鉄の歴史(4):夢の超特急を作る

71歳で第4代国鉄総裁への就任を要請された十河信二には、ずっと心に秘めていたある夢がありました。 それは、広軌新幹線で夢の超特急を作ること。 4-1.軌間 新幹線以外の一部私鉄を除く線路は、実は世界の基準で見ると幅が狭く(「狭軌」と呼ぶ、1,067 mm = 3 フィート 6 インチ)、それが鉄道の高速化への障壁となっていました。この線路の幅になったのは、明治3(1870)年に新橋-横浜間の鉄道が敷設されるにあたり、イギリスの鉄道技術者エドモンド・モレルが勧めたからとされます。 モレルが狭軌を勧めた背景には諸説ありますが、いずれにせよ複雑な地形でトンネルや鉄橋などを多く使う必要の多い日本で、当初全国に鉄道網を築くにあたりコスト面から見て合理的であったことは事実でしょう。とはいえ、開国後の日本が西洋文化を取り入れ急速に発展するにつれ、やはり鉄道の高速化と大量輸送への対応のために広軌化する、つまり線路の幅を広げる(「標準軌」と呼ぶ、1,435 mm = 4 フィート 8 1⁄2 インチ)ことが必要であるという主張がなされるようになりました。 4-2.改軌 その論争は、明治5(1872)年の日本最初の鉄道開業以来ずっと続きました。十河の最初の職場であった鉄道院において総裁であった後藤新平も、広軌派(主要な幹線を広軌化して輸送力を増強するべきという立場)でした。しかし、そのためには莫大な費用がかかります。推進するには政府の決定が必要ですが、次々と入れ替わる内閣で方針は二転三転し、なかなか進みませんでした。 4-3.弾丸列車計画 昭和14(1939)年、チャンスがやってきました。下関から海底トンネルを掘り、朝鮮半島を経由して東京と北京を直通で結ぶ「弾丸列車」計画が具体的にスタートしたのです。これは単なる構想レベルではなく、実際に朝鮮海峡の海底地質調査も何度か行われましたし、東海道・山陽本線の線路を複々線(上下2本ずつ)とするためにトンネル工事も始まりました。 しかし、太平洋戦争の戦況悪化と共に計画は中止になりました。しかも、戦後の十河総裁就任の頃には航空機や自動車の普及により、交通手段としての鉄道はどんどん衰退するという見方が主流となっていたのです。よって、当時の政治家たちに正面からこの思いをぶつけても、もみ消されるリスクがありました。 では、どのように話を進めたのでしょうか。 COQTEZ Shop @ Amazon   国鉄の歴史(5):「君たちに夢を」   アイキャッチ画像:「弾丸列車計画 東海道新幹線につなぐ革新の構想と技術」 地田信也著 成山堂書店 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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