マシュー博士邸滞在の後に十河がお世話になったのは、郊外の小さな鉄道会社の実態を調査するために向かったロチェスターのスミス医師ご夫妻のお宅でした。ここでも、十河は家族の一員として手厚くもてなされました。
コラム:十河信二とアメリカ(3)
大正6(1917)年の十河のアメリカ留学で滞在先として紹介されたのは、ハドソン川に面するヘイスティングス (Hastings-on-Hudson) という小さな町に住むマシュー家でした。
コラム:十河信二とアメリカ(2)
十河信二は自身の米国留学について、出発前に友人たちへ本当の目的をこのように話しました。
自分はなにかしら将来米国と戦争にでもまるようなことがありはしないかという予感がしてならない。その時にどうしたらよいかということを研究するのが、真目的である
コラム:十河信二とアメリカ(1)
後に第4代国鉄総裁となる十河信二は、鉄道院経理局勤務時代の大正6(1917)年、鉄道事業の研究を主な目的として米国に1年留学することになりました。
COQTEZ ブランドのポジショニング
史上初 『国鉄の香り』 ルームフレグランスの衝撃的なデビューから始まった COQTEZ。今回は、そのポジショニングについてお話します。
COQTEZ ブランドが目指すもの
2017年10月8日午前7時に配信された「乗りものニュース」さんの記事は、Yahoo!、Google、LINEなど次々と大手webニュースメディアに掲載され、大変ありがたいことに 『国鉄の香り』 が日本中に知れ渡ることになりました。
コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(2/2)
大蔵省の大隈重信のもとに新橋-横浜間鉄道建設の願書を提出した高島嘉右衛門。明治政府の若きホープ、大隈重信と伊藤博文はどう対応したのでしょうか?
コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(1/2)
毎年10月14日は「鉄道の日」。それは、明治5(1872)年のその日に日本で初めての旅客鉄道が新橋(後の汐留貨物駅、現在は廃止)と横浜(現在のJR根岸線桜木町駅)を結ぶ路線で開通したことに由来します。この鉄道建設は、日本の近代化を進めるために明治政府の大隈重信と伊藤博文が中心となって発案されて推し進められた、という話は多くの人の知るところとなっています。しかし実は、ある一人の人物がそもそものきっかけを作っていたのをご存じですか?
『国鉄の香り』+ 国鉄青モケットクッション 販売開始!
この度、READYFORさんの購入型クラウドファンディングプロジェクトとして鉄道をテーマにしたフレグランスとしては恐らく世界初となる 『国鉄の香り』 ルームフレグランスと、国鉄青モケットクッションを商品化しました。
是非ご覧ください!
コラム:ビジネス特急「こだま」の設計
ビジネス特急「こだま」を設計されたのは、新幹線0系電車の設計にも携われ、後に国鉄副技師長となられた星 晃でした。今回は、その設計にまつわる話を幾つかご紹介します。
コラム:ビジネス特急「こだま」の魅力
昭和33(1958)年11月1日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」。当時大人気となった列車のおもな魅力を取り上げます。
コラム:ビジネス特急「こだま」の誕生
赤とクリーム色の「こだま」形国鉄特急電車。本州や九州の幹線ではほぼどこでも見られたこのスタイルの列車の元祖である151系電車誕生の歴史に迫ります。
コラム:東海道線の色はみかんと葉っぱではない?
東海道線電車の緑とオレンジのツートンカラー、「湘南色」。これは、沿線のみかんと葉の色として選ばれたと思われている方も多いかもしれませんが、実は違うのです。
コラム:「東海形」と呼ばれる車両デザイン
近年まで東海道線など首都圏でもよく見られたいわゆる「東海形」と呼ばれる顔を持つ国鉄設計の電車。今回はそのデザインの背景に迫ります。
国鉄の歴史(エピローグ):人類の未知への挑戦
日本における鉄道と宇宙開発。それぞれの分野はまったく関係ないと思われるかもしれませんが、実はある一人の人物を通して大きなかかわりがあるのをご存知ですか?
コラム:ブルートレイン設計者が語る夜行寝台列車の未来
0系新幹線の車体設計で有名な星晃氏は、元祖「ブルートレイン」20系客車の設計にも関わられましたが、ご存命中にすでに縮小傾向にあった夜行寝台列車の行く末を案じておられました。今回は鉄道専門誌の記事の中から、盟友卯之木十三氏のお話なども交えてご紹介したいと思います。
コラム:3系列の国鉄ブルートレイン
平成27(2015)年8月22日。臨時列車となった札幌発上野行き寝台特急「北斗星」を最後に、昭和33(1958)年10月の東京-博多間を結ぶ寝台特急「あさかぜ」のデビューから始まったブルートレインの歴史の幕がいったん閉じました。
実は、「ブルートレイン」と言っても3つの異なる系列があります。ざっくりと、何がどう違うのでしょうか?特に鉄道に興味がない方でも分かるように、簡単にまとめてみました。
コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか
#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。
昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立することになりました。でも、なぜ臨時だったのでしょうか?
PEの歴史(1) : Pacific Electric の誕生前夜
20世紀初頭、「世界最大の電車ネットワーク」と呼ばれた Pacific Electric(パシフィック・エレクトリック)。米国カリフォルニア州で、総延長約800キロにも及ぶ巨大な鉄道網を有する会社はどのようにして誕生したのでしょうか。
私見:アメリカでの「ブルートレイン」の知名度
1985年2月、翌月に引退する東京-大阪を結ぶ夜行寝台急行「銀河」号の20系客車の写真を撮りに大船駅に行った小学5年生の私ですが、そのすぐ後に衝撃的な知らせが飛び込んできました。