国鉄は収益性の高い公共企業体だった

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30年前に分割民営化されJRとなった国鉄は収益性の高い公共企業体だった。

これはどういうことなのでしょうか?

1.黒字だった国鉄

確かに昭和62(1987)年の解散時点で25兆円もの債務を抱えていたわけですが、実は昭和30年代の半ば頃の国鉄は黒字であり、ピークの昭和37(1962)年では収支率が110%を超えていました。つまり、10%程の粗利があったということなのです。ところが、昭和39(1964)年には赤字に転落し、その後ついに黒字化することはありませんでした。

2.総裁任期と収支率の関係

この事実を、国鉄の経営という観点から調べるととても興味深いデータがあります。国鉄監査委員会の資料を基に、入手可能な年度ごとの営業収入を営業経費で割って算出した収支率を折れ線グラフにしたものがこちらの図です。

歴代国鉄総裁任期と国鉄収支率の比較

この図には、国鉄のトップであった歴代の総裁の名前と任期も加えてあります。するとどうでしょう、十河信二 第4代国鉄総裁 の任期と、収支率が右肩上がりに上昇した昭和30年代の時期とがぴたりと合致します。

3.昭和30年代

ブルートレイン「あさかぜ」、ビジネス特急「こだま」、東海道新幹線など、いわゆる国鉄時代を象徴する列車はすべてこの時期に設計されているのですが、当時の国鉄は十河信二総裁と島秀雄技師長が強力なタッグを組み、当時の世界では絶対に無理と思われていた200km/h超えの夢の超特急(東海道新幹線)を実現すべく在来線にその基礎技術を次々に取り込むと同時に検証を進めていました。昭和39(1964)年に開通した東海道新幹線には、大戦中に戦闘機などを設計していた航空技術者が多数設計チームに入ることで世界初の優れた超高速鉄道が誕生しました。

昭和30年代の国鉄「黄金時代」とその後の転落の背景には様々な要因がありますが、このブログでは十河総裁の時代の国鉄の収支とプロダクトデザインという2つの異なる視点から、私の主観的な印象で思うところを綴って行きます。

そのために、まずはじめにそもそも「国鉄」とは何だったのか。次回から簡単にその歴史をまとめて行きたいと思います。

 

国鉄の歴史(1):国鉄の誕生

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髙橋 竜(たかはし りゅう) 横浜市生まれ、ロサンゼルス育ちの49歳。法政大学経済学部卒。所属は、某外資系IT企業と COQTEZ ブランドをプロデュースする合同会社ビイエルテイ 代表。ボランティアとして、福岡市に保存されている国鉄ブルートレイン車両「ナハネフ22 1007」の保存修復活動を2009年より継続中(任意団体 ナハネフ22 1007修復プロジェクト委員会 会長)。横浜市在住。趣味は鉄道(メインはやはり国鉄)、料理、ドラム。愛が込められたプロダクトデザインとしての国鉄車両とあらゆる意味での持続可能性が高い経営という組み合わせの実現を夢見ています。

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