十河信二国鉄総裁が尊敬されていた、恩師である後藤新平初代鉄道院総裁は、ある時このように訓示を述べられたそうです。
多くの人々の協力にまつところの大きい鉄道に従事するものは、まず愛というものに徹しなければならない。ただただ鉄道のためにつくすという心がけをもち、その愛を乗客、貨物、器具、機械におよぼすのである。要するに鉄道のために鉄道を愛し、万事に精神をこめて献身的に鉄道に従事してもらいたい。
この言葉は、生涯十河総裁の胸に刻まれていたと、「別冊 十河信二」でご本人が述懐されています。
1.十河信二総裁
もう一つ、「別冊 十河信二」 から、昭和56(1981)年10月22日の十河総裁の葬儀の際に友人代表として弔辞を述べられた木内信胤氏の言葉がとても印象的なので、ここで引用させてください。
先生の真のお志は、決して新幹線を作ることに在ったのではない。それを通じて国鉄を、その在るべき姿に在らしめることであったのです。人の一生をオーケストラに譬えれば、その演奏が始まって終わるまでが、この世の生活、人の一生でしょう。演奏が終われば音は聞こえなくなりますが、「曲そのもの」はそのまま存在しております。音の聞こえなくなった演奏と「曲そのもの」とは、どちらが真の実在か、考えてみるべきものでしょう。先生はいよいよこれから、その力を発揮されて、日本国の将来に、大きな影響をお与えになることとと思います。
2.島秀雄技師長
島秀雄技師長も、その晩年にこのように書き残されています。
人間というものは、ある決意のもとに事を進めていけば大体何事でもやれるものだという教訓を、この鉄道からわれわれは教えられたような気がする。
この「ある決意」とは、どんな困難に直面しても決してあきらめず、次の世代に『夢』を与えようとまさにその命を懸けて奮闘された十河総裁の熱い思いを念頭に置いたものであるに違いありません。
3.国鉄ブルートレイン
「新幹線の父」十河信二総裁なくしては、九州直通寝台特急「あさかぜ」の誕生はありませんでした。そして、島秀雄技師長なくしては、直接薫陶を受けられた星晃副技師長、そしてその盟友、卯之木十三車両設計事務所次長がその設計を取りまとめられた20系「ブルートレイン」客車が少なくともその形でこの世に存在することはなかったかもしれません。
プロダクトデザインは、その設計者に似るといわれます。この20系「ブルートレイン」客車を含め、私は昭和30年代に設計された国鉄車両を見て触れるたびに何か特別にわくわくするものをずっと感じてきました。それは理屈のない直感であり、これまでずっとロジカルな説明ができませんでした。しかし、このブログのためにその歴史背景を検証することを通じて、まだまだその知識は十分ではありませんが、その理由が少し分かった気がします。それは、きっと医師でもあった後藤新平総裁の純粋な愛の表れであるということ。そして、福岡市貝塚公園に保存されている20系先頭車 ナハネフ22 1007 にも、その時代の国鉄を作り上げた十河信二総裁と島秀雄技師長の情熱と生き様が反映されているように思えてなりません。
この穏やかな笑みをたたえたブルートレイン車両も、数え切れないほどの障害と苦難を乗り越えながら「若い者に『夢』を与えたい」と願い、最も環境負荷の少ない交通手段である鉄道の復権のため、決してあきらめずに命を懸けた十河総裁と島技師長のもとに結集した「ドリームチーム」のいわば愛の証しとして、これからもずっと子供たちを静かに優しく見守ってくれますように。
衝撃の事実!「新幹線の父」十河信二国鉄総裁は、「ブルートレインの父」でもあった!!
コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(1/2)
コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(2/2)
シリーズ「国鉄の歴史」(全23話+エピローグ)はこちらから。
アイキャッチ画像:『週刊サンケイ』(昭和37年7月16日号、十河家蔵)より。撮影:房木芳雄 / 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco p.730-731 より
「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会
「新幹線を作った男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」 髙橋団吉著 PHP文庫
[…] まとめ:十河総裁と島技師長と国鉄ブルートレイン […]
コメントは締め切りました。