昭和31(1956)年11月19日、この日戦後初めてとなる夜行特急列車「あさかぜ」号が走り始めました。
2-1.雷が落ちる
十河総裁も、この1番列車に乗り込みました。ところが、雷が落ちます。企画した広島鉄道管理局の瀧山はこう書いています。
総裁は、初列車に乗って西下された。大いに喜んでいただけただろうと、広島駅でお迎えすると、いきなり大きな雷を落とされた。客車便所の急造の腰掛が便器と形が合っていない、というのである。”品川検車区の所管でして”と言い訳しても、総裁には通じなかった。
同じ列車で一往復した石井昭正常務理事も、関係者を集めると「なんだ、このお粗末な車両は!これでは特急の名に値しない。すぐに「あさかぜ」専用の新しい車両を作るように!」と叱りつけます。
2-2.新しい寝台客車を作れ
島技師長から直接薫陶を受け、当時ヨーロッパ帰りの若き技術者であった後の副技師長、星 晃が苦労して設計した新しい客車(10系)は、この一言で一蹴されてしまいました。
しかし、もっと大きな構想を内に秘めていた星は、「これでもともと考えていた自分の構想を叶えられる!」と考えて逆境をバネに変えます。さっそく、盟友の卯之木十三(車両設計事務所次長)と全く新しい寝台客車の開発を始めました。
2-3.優美なデザイン
この20系客車には、ハイライトが幾つかありますが、その一つにこの時初めてデザインそのものを列車の特徴としたことが挙げられます。特に、食堂車は製造を担当した日本車両と日立のそれぞれで独自のデザインとなり、とりわけ日立製は画期的なものとなって話題になりました。
興味深いことに、星副技師長は雑誌「鉄道ピクトリアル」の中で、そもそもデザイナーを立てることは十河総裁からの指示であったと書かれています。
さらに、青15号(藍色)の塗色については、星がヨーロッパの寝台車が青色であり、青色だといかにも静かに眠って行ける感じがするのでとても感じが良いと提案しました。帯の色(クリーム1号)やその位置なども星副技師長と国鉄設計チームが考え、島技師長はじめ磯崎営業局長(当時)も賛成しました。
こうして、その運転開始から約2年後の昭和33(1958)年10月1日、後にその優美なデザインでブームを引き起こした「ブルートレイン」と呼ばれる20系寝台客車が「あさかぜ」号として初登場したのです。
画像: CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1323770
「十河信二」 十河信二傅刊行会
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