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コラム:ビジネス特急「こだま」の人気

昭和33 (1958) 年11月の運転開始から、たちまち大人気となった国鉄151系電車によるビジネス特急「こだま」。この列車の人気と、実際の旅客輸送需要への変化を考察します。 夢と憧れ 車内で検札をしていたとき、あるお客様から切符と一緒にサイン帳を差し出されたことがありました。当時は一度<こだま>に乗ってみたいという方が本当に多かったですね。 ―<こだま>に乗務していた東京車掌区所属の内田義男氏 特急「こだま」は、当時の少年たちにとっても夢と憧れの対象でした。「こだま」に乗ることができた少年は、学校のクラスメートに興奮しながら体験談を話していました。 航空機との比較 昭和39 (1964) 年の時点ですでに26の空港が日本国内の旅客輸送用に機能しており、その中で東京(羽田)空港が昭和27 (1952) 年、大阪(伊丹)空港は昭和33 (1958) 年にそれぞれ米軍から返還されていました。日本航空は昭和26 (1951) 年に設立されており、ビジネス特急「こだま」が運転を開始した時点ですでに戦後の国内航空輸送網は確立していました。 とはいえ、当時の国内線はダグラス DC-4 などのプロペラ機が主力で、機内の与圧(高度が高くなるにつれて気圧が低くなるため、内部の気圧を上げること)はされておらず、3000m 程度の高度を飛行し気流の乱れに影響されることが多いうえにエンジンの振動や騒音も大きかったため、必ずしも今と比べて快適なフライトではなかったと言えます。とはいえ、それでも時速は DC-3 で345km/h、DC-4 では350km/h と現在の東海道新幹線列車最高時速よりも速いことは大きなメリットでした。 輸送量の増加 ここで、こちらの国鉄技師長室資料の統計データをご覧ください。 これを見ると、「こだま」の人気は単に並行して走っていた客車特急列車の乗客が移動したのではなく、鉄道旅客輸送の新たな需要を生み出したことが分かります。こうした過去の事実は、これからの鉄道ビジネスの在り方にも洞察を与えるものであると私は考えます。 以下、「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.83, 84 より引用させていただきます。 技師長室では、「簡単に結論付けることはできないが、輸送量の増加は自然増だけでなく、ビジネス特急「こだま」による誘発は明らかで(ある)... とし、 ① 「こだま」の爆発的人気が航空機へ移行した旅客を取り戻したであろうこと ② 汽車の旅の考え方に新しい快適な旅行気分を盛込み、旅行頻度の増加をもたらしたであろうこと と分析した。 COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:ビジネス特急「こだま」運転開始日の東京駅/写真:小川峯生 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.81  「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著...

コラム:ビジネス特急「こだま」の経営

昭和33 (1958) 年に国鉄が約9億5千万円の資本を投下して開発した、151系ビジネス特急電車「こだま」。そこで培われた技術は後の東海道新幹線0系電車の誕生への重要な基礎となりましたが、この列車は国鉄の経営面においても大成功を収めました。 設備投資計画 ビジネス特急「こだま」は、その計画段階で東京-大阪間を従来より1時間短い6時間30分で結ぶことを目標としていました。しかし、そのためには線路や関連設備に改良工事を施す必要があり、費用は約9億円と見積もられていました。 しかしながら、この金額は予算として確保することが難しいため、運転条件を幾つか検討することになりました。その結果、投資額約4億円で所要時間がそれまでより40分ほど短縮する6時間50分とする案を採用することになりました。 運転ダイヤ 運転ダイヤは、毎日運転の一日2往復(うち1往復は神戸発着)とするためにそれぞれ8両からなる2編成+予備編成1編成の合計3編成が製造されました。また東京(もしくは大阪)まで日帰り出張を可能にするため、往路はそれぞれ早朝に出発して復路は夕方に出発する設定としましたが、これには少なからず批判がありました。 というのは、長距離列車は朝ゆっくり出発して夜それほど遅くなる前に目的地に到着するものという考え方が当時一般的であったからです。それまでのダイヤと異なる早朝深夜の発着では利用率が下がるのではないかという懸念もありました。 しかしながら、 ビジネスのために時間を有効に使わなければならない乗客には、その方が喜ばれる。現に航空機(東京―大阪間)の早朝深夜発着便は、高い利用率を示しているではないか。 という島技師長の説得により実現することになりました。   収支 昭和33 (1958) 年11月1日に営業運転を開始したビジネス特急の乗車率は、想定されていた乗車率85%をはるかに上回る95%となりました。投下資本約9億5千万円に対して初年度の収益は当初の予想を1割以上も多い約9億9千万円となり、たった1年で投資全額を回収する快挙を成し遂げたのです。   COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.24  「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング

コラム:国鉄から始まった「電子レンジ」

昭和30年代の国鉄は、当時の先端技術を新型車両に積極的に取り入れて時代をリードしていました。今回はその中の一つ「電子レンジ」を取り上げます。 兵器は調理器具へ 第二次世界大戦中、兵器としてレーダー技術が実用化されました。この技術によるマイクロ波を調理器具に応用できることを発見したのは、米国レイセオン社の技師パーシー・スペンサーでした。その原理は、水分子を含む物質が電磁波によって分子レベルで振動および回転することにより加熱されるというものです。 米国ではレイセオン社が特許を取得し1947年に製品化しましたが、日本における調理器第一号を開発したのは、日新電機の井上昭雄(てるお)でした。 実用化 井上氏は、東芝からマイクロ波を使った調理器具の実用化を依頼されました。 この高周波は覗いたりすると角膜をやられてしまいますので全面にスリットを設けたり、二重三重の安全装置の設計は入念に行いました。東芝からは国鉄の食堂車と自衛隊を販売ターゲットに考えていると聞きました。製品化したときの価格を考えて、飲食店や一般家庭ではなく官公庁にねらいを絞ったのでしょうね。 - 井上氏談、福原俊一著「国鉄急行電車物語」より かくして、試作品は昭和35 (1960) 年に完成し、その後東芝が製品化しました。 『電子レンジ』 国鉄への営業が始まる頃には、その2年前からビジネス特急「こだま」が首都圏と京阪神を結んでおり(東海道新幹線開業前)、ビュッフェと呼ばれた食堂車には当時としては非常に先進的な各種電気器具-電気冷蔵庫、電熱式酒かん器、ジュースクーラー、電気レンジなどが揃っていました。 しかしながら、電気レンジでメニューのビフテキ(ビーフステーキ)を調理するにはそれまで使っていた石炭レンジに比べて火力が足りず、コックからはクレームが出ていました。 マイクロ波を使った新しい調理器は昭和36 (1961) 年12月から153系急行電車のビュッフェに採用され、温かいカツ丼や鰻丼を提供することができるようになりました。 東芝が開発した新製品に名前をつけようと、関係者でいろいろ考えました。電気のレンジなのですが、電気レンジは当時既に20系客車やこだま形の食堂車などで使われていましたから、高周波の電子で加熱するので『電子レンジ』とネーミングしたのです。後にこの名称が一般化しますが、最初のネーミングはたぶん我々だと思いますよ。 とは、当時国鉄の電車主任技師だった星 晃氏のお話です。     COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:153系急行電車、155系修学旅行電車。「国鉄急行電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.10  https://ja.wikipedia.org/wiki/電子レンジ 「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄急行電車物語」福原俊一著 JTBパブリッシング

コラム:ビジネス特急「こだま」の設計

ビジネス特急「こだま」を設計されたのは、新幹線0系電車の設計にも携われ、後に国鉄副技師長となられた星 晃でした。今回は、その設計にまつわる話を幾つかご紹介します。 1.コンセプト 星氏は、昭和29 (1954) 年にヨーロッパの鉄道車両を調査のため長期出張されました。その際、当時デビューしたばかりのイタリア国鉄の特急電車「セッテベッロ」(ETR300)に乗車される機会がありました。この車両は先頭部が走行中に前が見える展望席となっており、運転席は車両上部にありました。 こだま形電車の設計にあたり、ご本人は後に「それまで日本になかったデザインを目指した。しゃくだから、アメリカやヨーロッパの真似はしていないよ」と語られていますが、「セッテベッロ」からのインスピレーションは十分にあったのではないかと思います。 By Stefano Paolini - Originally from etr302-010203codogno.jpg on photorail.com; uploaded on it.wiki by Stefano Paolini; moved on Commons on 5 March 2009, CC BY-SA 2.0 it, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6094929 2.飾りじゃないボンネット 「こだま」形の外観で最も印象的なのは、その先頭部のボンネットではないでしょうか。特急電車ということでスピード感を持たせるという狙いから、ボンネットの上端部分が下よりも若干突き出たデザインが採用されたのですが、そもそもこれは単に美しさを求めた結果ではありません。 電車のおもな騒音源は、床下に取り付けられていたMG(電動発電機) と CP(コンプレッサー、空気圧縮機)でした。これらを、日本における高速運転では踏切事故のリスクが高いことを考慮し展望室の採用を見送った先頭部のスペースに設置することで、優等列車として客室の静粛性を高めてお客様へのサービス向上を図ることができました。 昭和39 (1964) 年4月24日、静岡駅近くを90km/hで走行していた12両編成の「こだま」形151系電車が踏切にいたダンプカーと衝突し、6両が脱線するという事故が発生しました。ダンプカーの運転手は亡くなり、特急電車のほうにも負傷者が出ましたが死者はいませんでした。リスクに対する適切な判断による設計が幸いしたといえるでしょう。 By...

コラム:ビジネス特急「こだま」の魅力

昭和33(1958)年11月1日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」。当時大人気となった列車のおもな魅力を取り上げます。 1.パーラーカー 当時先進国に負けない設備と性能を持つ特急電車を作る、という方針で設計された151系ビジネス特急電車。航空機を超えるサービスを提供するべく設計された車両のハイライトは、何といっても「パーラーカー」の存在にあります。 日本で最もマナーの良い乗客をお招きするのにふさわしい、一流の落ち着きと品位を与える車内設計とするよう島秀雄技師長から指示されたその室内には、展望を良くするために 2m x 1m の大型複層窓が採用されました。 開放室では、中央通路の片側にそれぞれ1人かけの回転式シートを設置し、荷物棚はすっきりとした開放感を与えるために網棚ではなくガラス製の棚としました。区分室には2人かけソファーが向い合せに置かれ、さながら「走る応接室」でした。 By 国鉄 - 国鉄1960年発行パンフレットより、『鉄道ファン』No.371 1992年3月号付録, 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2291861 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2291859 2.世界最高速記録 こだま形151系電車は最高速度160km/hを目標に設計されましたが、その性能限界の確認と新幹線が技術的に実現できることを証明するために高速度試験が行われることになりました。 昭和34 (1959) 年7月31日16時07分30秒。東海道線金谷-焼津間の上り線 東京起点202km付近で、当時の狭軌鉄道世界最高速度である 163km/h の記録に成功しました。 高速度試験に使用された編成の先頭車には、後にその功績をたたえたチャンピオンプレートが取り付けられました。       3.愛情を注がれた東海道電車特急 昭和39 (1964) 年9月30日。夢の超特急 東海道新幹線開業を翌日に控えたその日の14:30、最後の在来線特急「第2こだま」が東京駅を出発しました。 そして151系特急電車を受け持っていた田町電車区から、いよいよ最後の名古屋行き特急「おおとり」が出庫する時がやってきました。以下、福原俊一著「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」より引用させていただきます。 誕生以来苦楽をともにした区員たちは「特急電車を送る会」を催した。出庫する最後の編成をねぎらうように、串田正平区長以下幹部職員が御神酒を注いだ。営業運転初日の〈こだま〉に乗務し、運転助役に栄転していた岡山保もその一人だった。 「車体をなでながら、『ご苦労さん』の言葉をかけながら、御神酒をかけてやりましたね」 岡山は昨日のことのように語った。そして17時32分、最後の東海道電車特急として出庫していく〈おおとり〉の後ろ姿を、天塩にかけて育てた愛娘を嫁がせる日の父親のような眼差しで全員が見送った。 結局、ビジネス特急電車の東海道線での活躍はわずか6年間でした。しかしその後は山陽・九州地区に活躍の舞台を移し、さらには性能向上改造を経て上越線、中央線、信越線などで使用されました。そして、このデザインは国鉄特急列車の基本となって日本中を駆け巡ったのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:「こだま」パンフレット/提供:星 晃 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.14 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング 「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB

コラム:東海道線の色はみかんと葉っぱではない?

東海道線電車の緑とオレンジのツートンカラー、「湘南色」。これは、沿線のみかんと葉の色として選ばれたと思われている方も多いかもしれませんが、実は違うのです。 1.グレートノーザン鉄道 昭和20年代前半(1940年代後半)までは、列車のカラーリングは蒸気機関車のばい煙の汚れが目立たない暗い色ばかりでした。 その頃、東海道線に80系と呼ばれる中長距離運転向けの快適な車内設備を持った新しい電車が星晃氏の手により設計されました。そんな時期に、島秀雄車両局長(当時)はアメリカの鉄道雑誌に載っていたある鉄道の写真に目を止めました。それは、ミネソタ州セントポールとワシントン州シアトルとを結ぶ本線を含む、米国北部で広大な鉄道網を有していたグレートノーザン鉄道の写真でした。 By 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=356553 このツートンカラーをヒントにして新しい電車のカラーリングを決めることが島車両局長から指示され、「湘南色」が誕生したのです。 2.湘南色の変更 それは、列車を見る人に強烈なインパクトとセンセーションを巻き起こすとともに、戦後の明るい希望を与えるものとなりました。 オレンジ色の部分は、当初本来のオレンジ色に近い色でしたが、実際に塗ってみるとさび止め塗料のように赤みが強く評判があまり良くありませんでした。そのため、しばらくしてから色相を黄色系にずらして今の「黄カン色」と呼ばれる色に変更されました。 By Yaguchi - ja:東神奈川駅-ja:横浜駅, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3203044 3.みかんと葉っぱ というわけで、この「湘南色」が沿線のみかんと葉っぱのイメージから取られたというのは、後からつけられた説明なのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   「国鉄急行電車物語」 福原俊一著 JTB 「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」 福原俊一著 交通新聞社

コラム:「東海形」と呼ばれる車両デザイン

近年まで東海道線など首都圏でもよく見られたいわゆる「東海形」と呼ばれる顔を持つ国鉄設計の電車。今回はそのデザインの背景に迫ります。 1.鼻筋を通す 昭和21(1946)年、当時国鉄車両局長だった島秀雄は、高速運転時の乗り心地を良くするための振動解析および台車構造の研究を行う高速車振動研究会を発足させました。その研究の成果を反映させて、昭和25(1950)年に東海道線の東京~沼津間に登場したのが80系電車です。 この電車は、当時の「電車は短距離用」という人々のイメージを塗り替えました。そして、湘南地域を走ったことから「湘南電車」と呼ばれるようになり、国鉄内部でも「湘南形」という通称で呼ばれるようになりました。 By 栗原 岳 (Gaku Kurihara) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50969161 この写真は、前面のデザインが改良された「2次車」と呼ばれるグループのもので、「1次車」と呼ばれた最初に量産されたグループの車両(京都鉄道博物館に展示中)では全面の窓ガラスが3枚に分かれていました。この車両の設計を担当した星晃は、この1次車のデザインで島車両局長(当時)からほめられず、2次車でデザインを変更するように指示されました。 具体的には、 二枚窓にすること 前頭部に稜線を通すこと の2点です。 星氏は、設計会議などで説明する際にこのコンセプトを分かりやすく伝えるため、「鼻筋を通す」という表現を作り出しました。この表現はその後、国鉄内部で広く使われるようになりました。 2.変な格好のものを作ってはダメですよ その後、昭和32(1957)年になり、東海道線で電車特急を運転する計画が具体化すると、同時に準急・急行電車も製作する方針がまとまりました。前述の80系電車は10両編成と5両編成をつなぐ形で運用されており、それぞれの編成の間を行き来できないために車掌がそれぞれに乗務せざるを得なくなっていました。そのため、新しい電車では先頭部同士をつないだ時に通れるようにしてほしいという強い要望が営業および運転サイドから出ていました。 そこで今回その要望に応えて先頭部を貫通構造にすることになったのですが、そこで島技師長が出した指示は、 変な格好のものを作ってはダメですよ。 設計に当たった星は、このように語っています。 最初は湘南形のように前頭部の上面を傾斜させた形状を検討しましたが、貫通幌を取り付ける構造上、問題が多いので破棄し、垂直形で考えることにしました。その結果、幌を取り付ける貫通路とその両側を別々の平面にした三面形状を考えたのです。 また、当時は自動車が増えてきた時代でもあったため、踏切での視界を最大限に広げるために、隅部にも窓ガラスが回るようにしました。(パノラミックウィンドウ) 一枚物の曲面ガラスで製作すると、前面は大きなカーブになり価格も上がりますとメーカーにいわれ、あきらめました。そこで隅部にガラスを使い、前面部の平面ガラスと組み合わせて使うことにしました。ただ見かけ上は連続ガラスのようにしたかったので、両者を細い仕切棒で接合し、その外周をHゴムで取り付けたのです。 3.「東海形」デザインの広がり こうして出来上がった新しい準急・急行用電車のスタイルは「東海形」と呼ばれるようになり、昭和33(1958)年11月にモハ91形(後の153系)電車として東海道線にデビューしました。 その後、高速運転時の踏切事故に備えて運転席の床面を30cm高くする設計変更に合わせて窓の大きさや位置が変わる設計変更が行われましたが、この東海形の”顔”は国鉄最大数の先頭車になりました。昭和35(1960)年7月に製造された貴賓車にもこのデザインが採用され、私鉄車両のデザインにも影響を与えました。 COQTEZ Shop @ Amazon   「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」 福原俊一著 交通新聞社 「星さんの鉄道昔ばなし」 星晃/米山淳一 JTB 「鉄道ファン」 2000年11月号 交友社

コラム:ブルートレイン設計者が語る夜行寝台列車の未来

0系新幹線の車体設計で有名な星晃氏は、元祖「ブルートレイン」20系客車の設計にも関わられましたが、ご存命中にすでに縮小傾向にあった夜行寝台列車の行く末を案じておられました。今回は鉄道専門誌の記事の中から、盟友卯之木十三氏のお話なども交えてご紹介したいと思います。 1.時代の生活水準に応じた”ゆとり”を 新”あさかぜ”が営業を開始したのは、昭和33年10月1日でした。それから約10年後、私が客車の設計とは離れていた頃、全く別の用事でヨーロッパに参りました。でも昔とったきねずかと申しましょうか、新しい客車の構造が見たくて、いろいろな列車に乗って回りました。決して日本の鉄道が劣っているとは思いません。ただ、客車に乗って見た時、お客様1人あたりのスペースが大きいことだけは、ヨーロッパの鉄道の方が優れていると思います。そしてそれこそ、サービスの最も大切なことの一つかも知れません。 日本では、この狭い場所に如何にして押し込むかを考えているようにも見えます。狭いスペースにお客様を詰め込むために、人間工学を利用したようなことはなかったかと反省しております。国民が食うや食わずの生活をしている時は、スペースは生存の場であればよいわけでしたが、文明が向上すれば、これは生活の場でなければなりません。そしてこの両者の差を”ゆとり”と考えるならば、その時代の生活水準に応じた”ゆとり”を客車のスペースにも与えるように人間工学を利用してゆかねばならないと思います。 ー「20系客車の登場まで」 卯之木十三 鉄道ファン 1978年1月号 p.46 By spaceaero2 - 投稿者自身による作品 広島駅, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10436020 2.ビジネスホテルと価格で競争しなければならない しかしながら、前述の卯之木氏の記事から4年後、当時の国鉄副技師長であった加藤亮氏は夜行列車をレジャー型とビジネス型に分類した上でこのように語られました。 ビジネス型寝台車 このタイプは乗車時間が比較的短く、かつビジネスホテルと価格で競争しなければならないから、シンプルでかつ1両あたりの寝台数を多くしなければならない。寝台数を確保するためには、ビジネスホテルに採用されているカプセル方式なども、狭い空間を活用しなければならない寝台車に応用できそうである。 ー「寝台車の将来像」 加藤 亮 鉄道ジャーナル 1982年7月号 p.30-34 当時の国鉄はすでに多額の累積赤字を抱え込んでいたという背景もあり、「当面収入を上げるための企画に重点をおく」と述べられています。 3.時代に合わせる努力が足りなくなってから凋落が始まった その後、今から12年ほど前の2005年に、星晃氏はインタビューでこう話されました。 旅は急ぐためのものだけではないという街の声も聞く必要があると思いますね。世の中が変わったのは事実ですが、ヨーロッパなどでは寝台列車を新しく作っていますからね。場所にもよると思いますが、最終の飛行機が出た後に乗って、一番の飛行機よりも少し早く着くとか、そういう地点間ではまだまだ使いようがあると思います。いろいろと工夫の余地はあるような気がします。 それと、寝台列車には食堂車を付けて欲しいとも思いますね。楽しく乗れるような列車に考え直してもいいのではないかと。”ちょっと一杯”やれるような空間も必要なのではということです。いろいろと寝台列車について思いを巡らせますと、時代時代に合うようにやってきたわけですが、その努力が足りなくなってから凋落が始まったのだと思います。やはり食堂車をやめていなかったら、寝台列車の凋落はもう少し防げたのではないかという思いです。 -「星 晃氏に伺う20系誕生とその時代」岡田誠一/服部朗宏 鉄道ピクトリアル 2005年7月号 p.21 By Shellparakeet - 投稿者自身による作品, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33088758 アイキャッチ画像:By 日本語版ウィキペディアのDD51612さん, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17200318rid=12874827 COQTEZ Shop @...

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