コラム:愛情が注がれた国鉄103系電車

クハ103図面イメージ

製造総数3,447両。形式ごとの量産総数では、実は世界一といういまだ破られていない記録を持つこの電車の生い立ちに迫ります。

1.103系電車の登場

ぶどう色(茶色のことです)の電車だらけの中で、中央線に明るいオレンジ色の101系試作電車が颯爽と現れたのは、昭和32(1957)年のこと。都市圏でカラフルな電車が行き交う様子は今や当たり前の情景となりましたが、その当時はとても斬新なものでした。

この101系電車は、急速な経済成長に伴う都市圏輸送力増強のために開発された「新性能電車」でしたが、加速力と減速力を最大限に引き出すためにすべての車両を動力車とすることを前提に設計していたものの、当時の変電所容量の限界などの問題で当初設計されていたパフォーマンスを発揮できずにいました。

そのため、101系電車をベースに昭和35(1960)年から「より経済的な通勤電車」の設計が始まりました。駅と駅の間が短い通勤電車に求められるスペックに合わせたギア比の調整や100kWから120kWに出力をアップした主電動機などが盛り込まれた103系電車の試作編成8両がウグイス色で山手線にはじめて登場したのは、昭和38(1963)年3月25日のことでした。

川越線103系

JR東日本 川越車両センターにて 許可を得て撮影。

2.お天道様から頂いたものは大切にしなければいけませんね

昭和36(1961)年、国鉄の工作局でこの103系電車の設計を担当していたのは、久保田博でした。当時の技師長は島秀雄で、101系電車の設計と同様にすべての車両を電動車として電力回生ブレーキ(電車を止めるときにモーターを回して発電すること)を組み込むことを久保田に指示していました。

ところが、この頃はまだ回生に使える性能を満たすモーターはなく、変電所の容量の問題もありコスト的に難しい。繰り返し何度も久保田が説明していると、島技師長はこうつぶやいてむこうを向いてしまいました。

「久保田さん、お天道様から頂いたものは大切にしなければなりませんねえ」

島技師長のこの言葉の真意は、いまだにはっきりとは分かりません。私が思うに、いずれ地球環境問題は深刻になり、限られた資源を有効活用することが迫られる時代が来る。そのために、与えられているエネルギーは感謝して大事に使うという心を持つことの大切さを伝えられたかったのではないでしょうか。

3.『ひょっとこ』みたいなデザインで何とも思わないのか

時は流れ、昭和48(1973)年に登場した103系「高運転台」車の話に移ります。

その頃、踏切事故が多発し、運転士の安全確保のために先頭車両の運転台を高くする設計変更が必要となりました。当時、国鉄旅客局営業課長(のちのJR東海代表取締役社長、現相談役)であった須田 寛氏は、工作局車両課の担当者が持ってきた新しい車の絵を見てがっかりされました。

「国電というのは子供の絵本の表紙にもなる。こんな『ひょっとこ』みたいなデザインで何とも思わないのか」

担当者は、財政状況が厳しいのでそんなにお金をかけて形を変えるわけにいかない、こうするしかないと主張します。

「でも何か工夫があるでしょう。前に色帯を塗ったらどうですか」

「2色になると塗装工程に時間がかかります」

「ではステンレス鋼の帯をつけたら?」

ところが、担当者は太い帯だと重くなるのでできないと言ってきます。

「それでは妥協できるギリギリのところは?」

こうして付いたのが窓下の細いステンレス帯だったのです。この103系電車先頭部の新しいデザインは、当時の子供たちへの須田氏の愛情が詰まっています。まさにその時代に幼少期を過ごせた私は、本当に幸せだなと思います。

103系ATC車

京浜東北・根岸線で走っていた103系電車(昭和55(1980)年)、大船駅にて撮影。隣に写っているのは、当時6歳の私です。

 

「戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車 103系物語」 毛呂信昭著 JTBパブリッシング

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」 高橋団吉著 小学館

「須田 寛の鉄道ばなし」 須田 寛著 聞き手/福原俊一 JTBパブリッシング