コラム:剣を打ちかえて鋤とする / 三木忠直

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昭和30年代、十河総裁と島技師長のもとに集結した国鉄の新幹線開発チームには、多くの旧日本陸海軍にいた優秀な技術者たちが加わっていました。今回のコラムでは、その車体設計に大きく貢献したある人物を取り上げます。

三木忠直

現在の東京大学である東京帝国大学で船舶工学を学んだ三木忠直(みき ただなお)は、1938(昭和13)年に卒業後、海軍技術士官となりました。

1940(昭和15)年、三木はゼロ戦並みの最高速度に加えて4,000km の航続距離能力を持つうえに、1トンの爆弾を搭載可能な当時としては非常に優れた性能を持つ急降下爆撃機「銀河」の設計を任されました。

人間爆弾『桜花』

1941(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦後に戦況が悪化すると、いわゆる「特攻作戦」が現実のものとなってゆきます。

1944(昭和19)年夏、三木は「人間爆弾」の絵を見せられます。それは、小型航空機の先頭に大きな爆弾が装着され、機体ごと敵艦に突っ込むという新兵器でした。一度出撃すれば、操縦する飛行士はもちろん生きて帰ることができません。この計画に、三木はこう反発しました。

兵士は決死の覚悟で戦う。だがこれは兵士に『必死』を強いるもの。こんなものは兵器といえない。

しかしながらこの反論も、「我々が乗っていく」という前線兵士の声には無力でした。

三木が担当したこの特攻兵器は『桜花』と名付けられ、終戦までに755機が生産され、55名が特攻して戦死したとされています。

『重荷を負うもの、われに来たれ』

終戦後、三木は自分が設計した航空機で戦火に散った多数の若い命に対して強い自責の念を感じ、思い悩む日々が続きました。

凡て(すべて)労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。
― マタイによる福音書 11章28節

三木の心は聖書のこの言葉に救われ、クリスチャンとしての洗礼を受けました。そして、もはや二度と兵器を作るまいと心に誓ったのです。

設計屋ですから、やはり何か動くものを作りたいんです。しかし飛行機や船は、いざというとき兵器に転用されやすい。鉄道なら、そのまま直接兵器になりえないだろうと考えて、高速鉄道の研究をやろうと決めました。

 国鉄の鉄道技術研究所の技術者となった三木は、「美しいものは速い」というポリシーを持ち、小田急ロマンスカーSE車および新幹線0系車両の車体設計に大きく貢献しました。航空機の設計経験を活かし、低重心で流線形をした軽量車体を作ることで鉄道の高速性は大幅に向上すると確信していたのです。

当時の世論を新幹線建設の流れへと変えた歴史的な鉄道技術研究所創立50周年記念講演会では、「車両について」の講演を担当しました。(国鉄の歴史(9):東京-大阪三時間の可能性 参照)

“…they shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning hooks: Nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more.” ~ Isaiah 2:4 KJV

 


アイキャッチ画像:[後年、「ひかり」の模型を手にする三木忠直] 「「夢の超特急」、走る! 新幹線を作った男たち」 碇 義朗著 文春文庫 p.63

https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花 (航空機)

https://ja.wikipedia.org/wiki/三木忠直

「「夢の超特急」、走る! 新幹線を作った男たち」 碇 義朗著 文春文庫

「ゼロ戦から夢の超特急」青田 孝著 交通新聞社新書

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