2013年に公開された、宮崎駿監督によるスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画『風立ちぬ』。その主人公のモデルとなった堀越二郎が設計したのは、太平洋戦争当時世界一の性能を持ち、アメリカ空軍に恐れられた零式艦上戦闘機= […]
History
コラム:剣を打ちかえて鋤とする / 三木忠直
昭和30年代、十河総裁と島技師長のもとに集結した国鉄の新幹線開発チームには、多くの旧日本陸海軍にいた優秀な技術者たちが加わっていました。今回のコラムでは、その車体設計に大きく貢献したある人物を取り上げます。
コラム:国鉄のデザイナー / 黒岩保美
国鉄車両に見られた、日本の伝統と情景にマッチした美しい色合いや数々のトレインマーク、重厚感があり視認性に優れた各種表記文字。これらすべては、日本画を熟知した、ある一人のデザイナーの手によるものであったことをご存知ですか?
コラム:国鉄から始まった「電子レンジ」
昭和30年代の国鉄は、当時の先端技術を新型車両に積極的に取り入れて時代をリードしていました。今回はその中の一つ「電子レンジ」を取り上げます。
コラム:十河信二とアメリカ(4)
マシュー博士邸滞在の後に十河がお世話になったのは、郊外の小さな鉄道会社の実態を調査するために向かったロチェスターのスミス医師ご夫妻のお宅でした。ここでも、十河は家族の一員として手厚くもてなされました。
コラム:十河信二とアメリカ(3)
大正6(1917)年の十河のアメリカ留学で滞在先として紹介されたのは、ハドソン川に面するヘイスティングス (Hastings-on-Hudson) という小さな町に住むマシュー家でした。
コラム:十河信二とアメリカ(2)
十河信二は自身の米国留学について、出発前に友人たちへ本当の目的をこのように話しました。 自分はなにかしら将来米国と戦争にでもまるようなことがありはしないかという予感がしてならない。その時にどうしたらよいかということを研究 […]
コラム:十河信二とアメリカ(1)
後に第4代国鉄総裁となる十河信二は、鉄道院経理局勤務時代の大正6(1917)年、鉄道事業の研究を主な目的として米国に1年留学することになりました。
国鉄の歴史(エピローグ):人類の未知への挑戦
日本における鉄道と宇宙開発。それぞれの分野はまったく関係ないと思われるかもしれませんが、実はある一人の人物を通して大きなかかわりがあるのをご存知ですか?
コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか
#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。 昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立 […]
コラム:十河信二と在来線
「新幹線の父」である十河信二は、国鉄総裁時代に当然のことながら東海道新幹線の建設を最優先にしました。では、十河にとって在来線とはどのような位置付けだったのでしょうか。
コラム:2つの新幹線開通記念碑
昭和39(1964)年10月の東海道新幹線開通を記念して、東京駅には2つの記念碑があります。今回は、それらにまつわるエピソードを取り上げます。
コラム:十河信二と新幹線テープカット
昭和39(1964)年10月1日の東海道新幹線出発式に、十河前総裁と島前技師長の姿はありませんでした。
コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(2/2)
昭和31(1956)年11月19日、この日戦後初めてとなる夜行特急列車「あさかぜ」号が走り始めました。
コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(1/2)
これまでのストーリー(国鉄の歴史)で「新幹線の父」として描かれている十河総裁と、ブルートレインとの間には一見何のつながりもないように思われるかもしれません。ところが、歴史を紐解くと意外なことに十河総裁はブルートレインの父 […]
コラム:島技師長の設計思想
プロダクトつまり工業製品は、その設計者に似るといわれます。新幹線だけでなく、有名な蒸気機関車「デゴイチ」ことD51も島技師長の作品です。そのデザインには、合理的で控えめかつシンプルな美しさのなかに格調の高さを感じます。
コラム:十河総裁と東海道新幹線のカラーリング
昭和37(1962)年初頭、試作車両のカラーリングをいよいよ決めることが必要になりました。島秀雄技師長は、このような指示を出します。
国鉄の歴史(終):老兵の消えて跡なき夏野かな
昭和38(1963)年5月17日。国鉄総裁として最後の記者会見で十河は一句詠みました。 老兵の消えてあとなき夏野かな
国鉄の歴史(22):分割民営化への道
昭和40年代、ストライキが頻発して遅れや運休が頻発した乗客の怒りが頂点に達し、ついに暴動が起きてしまいます。
国鉄の歴史(21):労使対立激化
石田総裁は、その二期目途中の昭和44(1969)年5月27日、高齢により勇退。総裁のバトンは鉄道省出身の副総裁、磯崎叡に渡ります。