昭和38(1963)年5月31日。国鉄で十河総裁辞任に伴う人事異動が発表されると、その日の夕方東京ステーションホテルで送別会が開催されました。
17-1.送別会
発起人は、全員ノンキャリアの現場職員。定員250人の会場には500人以上が詰めかけ、割れんばかりの拍手と声援が送られます。十河信二は感激の涙を拭った後、力強くこう語ります。
東海道新幹線は、世界一だ。国鉄は世界一の鉄道としてよみがえる。世界一の鉄道をつくるのは、君たち現場の諸君だ。みんな、これからも誇りをもって国鉄を支えてくれ!オレもいっしょに夢を追い続ける!
17-2.ひかり号
昭和39(1964)年7月7日、国鉄理事会で夢の超特急の愛称が決まります。一般公募で集まった55万通以上の名称で一位となったのは、約2万通あった「ひかり」。それに続いて、「はやぶさ」「いなづま」「はやて」「富士」「流星」「あかつき」「さくら」「日本」「こだま」という順位でした。議論の末に光と音のペアにしようということになり、「ひかり」「こだま」で決定しました。
これらの応募の中に少なからず「そごう号」という愛称が入っていたことから、一般の人々の十河人気がうかがえます。
17-3.出発式
昭和39(1964)年10月1日、ついに開業の日を迎えます。午前5時59分、東京駅9番線ホームに待機する超特急「ひかり」1号の前で発車ベルが鳴ります。出発式の式典で石田禮助総裁が記念のテープカットを行い、定刻6時ちょうどに新大阪に向けて記念すべき夢の超特急がゆっくりと動き出しました。
ところが、この場に十河信二と島秀雄の姿はありませんでした。何と、二人とも国鉄に招待されていなかったのです。
島秀雄も、実はこの時すでに国鉄を去っていました。十河前総裁の再々任がないことが決定した時に辞表を提出していました。石田総裁は島を何とか引き留めようとしましたが、島の辞意は揺るぎませんでした。そもそも島が国鉄にカムバックを果たしたのは十河前総裁を助けるためであり、十河前総裁が辞める時には自分も辞めると決めていました。
十河が予算不足問題で引責辞任するのであれば、技師長である私にこそ最大の責任がある。
同様の理由で、新幹線総局長だった大石重成も島と時を同じくして国鉄を去っていましたが、出発式には大石の姿もありませんでした。
アイキャッチ画像:[Official ceremony prior to send-off of the Bullet Train on its first official run. Courtesy of Transportation News Co., Ltd.] From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way.
「新幹線を作った男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」 髙橋団吉著 PHP文庫
「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco
「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社
「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ
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