コラム:保存の目的と意義

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表紙
Rail Magazine

久しぶりの投稿になります。

この度、貴重なご縁を頂きまして 2021年1月21日 にネコ・パブリッシング社より発売された鉄道趣味雑誌「レイルマガジン」447号/2021年3月号の 82-85 ページに、不定期掲載の新企画「RM的鉄道保存車めぐり」の初回記事として「ナハネフ22 1007 修復活動の経緯と今後の展望」と題して私が執筆した記事が掲載されました。紙媒体の定期刊行物に自分が書いた文章が掲載されることは初めてのことで、深く感謝しております。よろしければ是非お手に取ってお読みいただけますと幸いです。

Rail Magazine 447 / 2021年3月号

結論の『「思い」を形として継承する』の部分は、当初『保存の目的と意義』という見出しの副見出しとして記述したものでしたが、編集部との調整の結果基本的にその部分のみにまとめることになりました。蛇足となってしまうかもしれませんが、ご興味のある方に以下も長文となり大変恐縮ですが補足文章としてお読みいただけますと幸甚です。


何のために鉄道車両を保存するのか。私はこのとても基本的な問いかけに対する答えこそが、持続可能な保存のために最も重要な本質を明らかにするものであると考えている。そして、私にとってその答えは、少なくとも20系客車を含む昭和30年代に設計された国鉄車両については明確なものとなっている。

国鉄黄金時代を築いたヒーロー

日本国有鉄道は、昭和24(1949)年のその発足当初から下山事件、三鷹事件、松川事件の「国鉄三大ミステリー事件」や、桜木町事故および洞爺丸・紫雲丸事故の大事故が続くなど、国鉄への人々の不信感は高まるばかりであった。また国鉄内部においても職員の士気が落ち、ストライキが頻発。労使関係も険悪な状態へと落ち込んで行く中、昭和30(1955)年に第四代国鉄総裁として就任したのが十河信二である。

十河には夢があった。それは、先人たちが戦前ついに実現することのできなかった広軌弾丸列車計画をもう一度よみがえらせて超特急を作ること。長距離の移動手段としての役割が航空機や自動車に取って代わられようとしていたその時代に、就任当時すでに71歳であった十河は若者たちに『夢』を与えたいという強い願いに突き動かされたのである。

その背景には、十河がかつて社会人としての第一歩を踏み出した鉄道院でその初代総裁を務めた恩師であり医師でもあった後藤新平のこの訓示の言葉が生涯胸に刻まれていた。

「多くの人々の協力にまつところの大きい鉄道に従事するものは、まず愛というものに徹しなければならない。ただただ鉄道のためにつくすという心がけをもち、その愛を乗客、貨物、器具、機械におよぼすのである。要するに鉄道のために鉄道を愛し、万事に精神をこめて献身的に鉄道に従事してもらいたい」。

就任早々、十河はかつてD51蒸気機関車や80系電車など数々の車両設計を手掛け、桜木町事故の後に国鉄を去っていた島秀雄に、技師長として再び戻ってほしいと要請する。国鉄内部の責任のなすりつけ合い体質に嫌気がさしていた島は当初断っていたが、「君の親父(島安次郎)は広軌改築に苦労を捧げながら、ついに実現できず恨みをのんで死んでいった。君は親の遺業を完成する義務がある。親父の弔い合戦をしないか」と語り、副総裁格とするからと必死に説得する十河の情熱に動かされて受諾する。

こうして、後に東海道新幹線としてそれまでの世界の常識を破る高速鉄道が生まれることとなった。

プロダクトデザインはその設計者に似る

プロダクトデザインはその設計者に似ると言われる。

島の設計思想は、直角水平主義であった。同時に、合理的なメカニズムは美しくなければならず、美しい機械は性能も素晴らしいという美学も持ち合わせていた。また、細かいところにこそ気を遣うこと、単なる思いつきで設計してはいけないとも開発チームに指示していた。

例えば、窓の形にもその思想が表れている。従来の車両の窓はきっちりとした長方形で四隅が直角であったが、これでは機械で洗車するようになるとコーナーに拭き残しができてしまう。よって、四隅の角を丸くしたほうが掃除しやすい。それで、20系客車の窓も含めて昭和30年代から登場する国鉄車両は窓の四隅が丸くなったのである。

島もそうであったが、当時の国鉄車両設計チームは、身近にいた大切な人々を戦火で失うという辛い経験をしていた。彼らには、生き残った者の使命として先の大戦でその尊い命が散った家族、友人、そして同僚の分も精一杯生きなければならないという強い思いがあった。

新幹線の設計チームには、戦時中に人間爆弾『桜花』を含む航空爆撃機を設計した三木忠直や、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のフラッター問題を解決した松平精など、多くの旧日本陸海軍にいた優秀な技術者たちが加わっていた。彼らは、それぞれそれまでに培った技術をもはや戦争で人を殺す兵器のためではなく、平和な世の中で活躍する鉄道車両のために惜しみなく提供した。そして彼らの努力は、新幹線の軽量車体や高速度でも安定して走行できる優れた台車の開発などに大きく貢献したのである。

「思い」を形として承継する

十河は、総裁公邸に帰ってからも毎晩夜遅くまで書類に目を通すのが習慣であったが、その約半分は一般利用者からの投書とそれに対する担当者の返事であった。それら一つ一つのやりとりを丹念に読み、問題があると感じれば必要な対応を取るよう担当者に直接指示をしていたという。私には、それが後藤新平初代鉄道院総裁から受け継いだ「愛」そのものに思えてならない。

また、十河は「新幹線の父」として知られるが、実は「ブルートレインの父」でもある。

昭和31(1956)年の東海道線の全線電化が完成したことをきっかけに、九州直通特急を走らせようという企画が持ち上がった。ところが大阪を深夜に素通りすることになるため、企画した担当者たちは役員を含む国鉄内部からの反対に遭った。そこで彼らは、列車を大阪駅に停車せずに貨物線を通過させることを考えた。この提案を聞いた十河が「おもしろい案だから、やってみろ」と後押ししたことにより、東京-博多間を結ぶ寝台特急「あさかぜ」が実現した。そして十河の指示によりデザイナーを立て、デザインそのものを列車の特徴としたその最初の例として昭和33(1958)年に登場したのが20系客車である。

私は、自分の記憶が始まるわずか3歳の時点でこれら昭和30年代に設計された国鉄車両の走っている姿を見るだけで感動を覚えていた。もちろん、その当時もその後こうした国鉄黄金期を築いたすばらしい先人たちがいらした歴史があることを知るまでもずっと、である。そして、こうした事実を知った時に心の中で感じた温もりは、これらの鉄道車両から既に感じていたものと何ら相違ないものであった。

こうしたプロダクトに込められた無形の「思い」から伝わる感動を承継するには、やはり有形なものを通してでないと難しいのではないだろうか。

ここに承継のテーマがあり、私はそれがまさにナハネフ22 1007を含む国鉄車両を保存することの目的と意義であると考えている。