コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか

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臨時車両設計事務所

#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。

昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立することになりました。

でも、なぜ臨時だったのでしょうか?

1.表向きの理由

翌年昭和33(1958)年からの「五か年計画」が取りまとめられており、その計画の目的には老朽化した車両を新しいものに置き換えることが含まれていました。ですから、5年間という区切られた時間が終われば、車両の設計業務も一段落することになるのでそれまでの臨時セクションである、というわけです。

しかし、その決定に実はもっと複雑な背景がありました。

2.組織改革の背景と経緯

まず、その頃は初代ブルートレイン車両となる20系客車や、新形通勤電車のモハ90形(101系)電車など、新しい技術を盛り込んだ車両が数多く設計されており、従来の工作局客車課と動力車課の中では組織としてそうした設計業務の増加に効率的に対応するのが難しくなっていました。

しかも、当時の国鉄は本社管理部門の機構簡略化と人員削減を進めており、車両設計にあたる要員が減らされては困るということで小倉俊夫副総裁と島秀雄技師長が話し合って決めたとされています。

クモハ101-902
臨時車両設計所発足から約4か月後に登場した国鉄モハ90形試作車(後の101系電車)。現在はさいたま市の鉄道博物館に保存されている。

By ​Japanese Wikipedia user Rittetsu-Master, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7374232

3.「臨時」と付けた本当の理由

本当の理由は、この組織改編の少し前に起きていた出来事から紐解くことができます。

広軌新幹線に対する調査会メンバーの煮え切らない態度に十河信二総裁がブチ切れた、東海道線増強調査会の4回目の会合(国鉄の歴史(8):国鉄内部の攻防 参照)があったのがその年の1月23日。2月4日の5回目の会合で調査会は打ち切りとなったばかりでした。

この時点では、新幹線が本当に実現できるかどうかという確証はありませんでした。確かに十河総裁は強力ですが、回りに敵も多く、老齢であり持病もある。さらに、技師長職の任期は3年で基本的に再任はないというのが原則であったことからすると、可能性として計画が挫折するリスクがあります。

であれば、島技師長が「少なくとも自分の任期中に夢の超特急は技術的に可能であることを証明する数々の新型在来線車両を、できる限り実現しておきたい」と考えられたとしても不思議ではありません。車両設計部門を国鉄内部から切り離して「車両設計事務所」という技師長直属の組織とすれば、作業を進めるのに運輸省や国鉄幹部からのハンコをもらうための無駄な時間を回避できるというメリットが生まれます。

しかしながら、なぜこれまでの体制を変えなければいけないのかという根強い反発が起きてしまいました。そこで、その名称の頭に臨時と付けた上で前述の表向きの理由となったのです。

 

コラム:3系列の国鉄ブルートレイン

「「夢の超特急」、走る!新幹線を作った男たち」 碇義朗著 文春文庫

「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社

「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB

「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著 deco

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