昭和30年代、日本は戦後復興から高度経済成長の時期を迎えます。東海道線(東京―神戸)沿線の東京、横浜、名古屋、大阪などの各都市には工場や市街地が広がり、人口が集中するようになりました。
8-1.東海道線増強調査会
十河総裁は、昭和31(1956)年4月11日の常務会で、国鉄内部に島技師長を委員長とする「東海道線増強調査会」の立ち上げを決めました。この調査会の目的は、経済成長による輸送需要を予測し、それに合わせてどのように輸送力を増強するべきか具体案を取りまとめることにありました。十河総裁の狙いは、調査会のトップに島技師長を据えることにより、国鉄内部の論議を広軌新幹線建設の方向に導いて一気にその計画決定へと進めることにありました。
8-2.広軌新幹線への抵抗
1回目の会合で、島技師長は調査会メンバーのほとんどが広軌新幹線に対して反対の立場であることを踏まえ、まずは輸送力増強のための手段をたたき台として提示するように求めました。しかし、2回目の会合でもそのメンバーから具体的な提案は出されませんでした。そこで、島技師長は
- 今の線路に併設
- 狭軌で別の線路を増やす
- 広軌で別の線路を増やす
- モノレール、その他
という項目を明示的に挙げた上で、4. を除くすべての選択肢を検討することを提案しました。
ところが、続く3回目、4回目の会合でも肝心の広軌にすべきかどうかということが議論されません。実は、国鉄は十河総裁就任前に、すでに輸送力増強の方針として 1. の今の線路に併設するという方針を固めていたのです。
8-3.十河総裁、怒る
広軌新幹線に反対なのか賛成なのか。煮え切らない態度を示す調査会の面々に、4回目の会合でついに十河総裁の怒りがさく裂します。
君たちは技術に忠実でない。技術的良心を発揮して、技術的信念に基づいて検討して欲しい。
十河総裁は、国鉄の技術者が政治的な圧力や財政事情などを気にして夢の超特急が作れないなどということがあってはならないと考えていたのです。しかしながら、この時点でも広軌新幹線のアイデアを支持したメンバーはほとんどいませんでした。ついに、翌年2月4日に開かれた5回目の会合で議論は打ち切りとなりました。
十河総裁は、この難局をどう打開したのでしょうか。
「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社
「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ
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