国鉄の歴史(7):春雷子

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十河総裁は、よく怒鳴りました。怒ると「実際にムチで打たれるような迫力」があり、その部屋にいる全員が思わず席から立ち上がってしまうほどのド迫力でした。

7-1.俳号の由来

十河総裁には俳句の趣味がありました。俳号は、「春雷子」。その由来は本人曰く、

春の雷は鳴るだけで落ちないように、おれの雷は実害がないから。

そんな十河総裁が一番怒ったのは、筋の通らない話でした。無条件に妥協することが大嫌いでした。側近たちと当時営業局長の(後に第6代国鉄総裁となった)磯崎叡(さとし)のグループが最も怒鳴られました。

十河総裁は「下から上がる雷だってある」と言って、むしろ自分に雷を落とすくらいの強者が現れることを期待していたようですが、さすがにそういう人は最後まで現れなかったようです。それもそのはず、ほんの一例ですが旧南満州鉄道理事時代は軍幹部に接触して日中戦線の拡大阻止を画策したり、日本人というだけで石を投げられた時代に中国の友人を作るためにと興中公司という会社を立ち上げたり、昭和12(1937)年の林銑十郎内閣の組閣に協力したり、…などなど、数え切れない修羅場をくぐりぬけてきたからです。

7-2.新幹線調査費の確保

十河総裁にはこうした異色の背景があったことから、政界に太いパイプと影響力がありました。十河総裁は就任後すぐに、東海道線の輸送力増強のために広軌の鉄道を作る必要があることを説明した薄いパンフレットを自ら作り、要人たちに配り始めていました。

ある日の早朝、十河総裁は当時の総理大臣であった鳩山一郎の邸宅に直接押しかけてこう熱弁します。

東海道に広軌鉄道を作ることについて、大臣や幹部を説得する自信はあります。閣議で異論が出たときのために、お墨付きをください。

「何年で、いくらかかるのか?」という鳩山首相の問いに対して、十河総裁が「5年以内で、初年度は調査費で100億円です」と答えると、鳩山首相はその情熱に動かされて「よろしい」と言いました。

7-3.利用者の声に直接耳を傾ける

十河総裁は、総裁公邸に帰ってからも毎晩夜遅くまで書類に目を通すのが習慣でしたが、その半分は一般利用者からの投書とそれに対する担当者の返事でした。そのやりとりを丹念に読み、問題があると感じると深夜でも担当局長に電話して雷を落としていました。

こうして、十河総裁にはコアなファンが増えると同時に、敵も増えてしまう状況となって行きました。

 

国鉄の歴史(8):国鉄内部の攻防

 

アイキャッチ画像:[Sogo customarily took his work home with him. Eldest daughter Michiko (far left) and granddaughter Tsugiko keep him company.] From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way.

「新幹線を作った男 島秀雄物語」 高橋団吉著 小学館

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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