石田総裁は、その二期目途中の昭和44(1969)年5月27日、高齢により勇退。総裁のバトンは鉄道省出身の副総裁、磯崎叡に渡ります。
21-1.EL・DL一人乗務
その頃、労使対立(一般職員と管理職との間の対立)は一層激しくなっていました。
そのきっかけとなったのが、それからさかのぼること約2年前の昭和42(1967)年3月にまとめられた「五万人の合理化計画」の中で打ち出された「EL・DL一人乗務」制でした。この提案はどういうことかというと、そもそも蒸気機関車では運転と同時に燃料の石炭をくべる必要があるため、機関士と機関助士の2名で乗務する必要がありました。しかし、時代はEL(= Electric Locomotive、電気機関車)とDL(= Diesel Locomotive、ディーゼル機関車)にすべて置き換わりつつあり、そうなれば運転するのに2人もいらないでしょう?ということです。理屈の通った話なのですが、この提案に国鉄の労働組合は猛反発し、ストライキを起こします。
対応に当たった当時の磯崎副総裁と労働組合との協議で、労組側は「現場協議制度の確立」という権利を勝ち取ったのですが、これが国鉄のいたるところの現場で一般職員が暴力をふるって管理職を吊し上げるという険悪な状況を作り出してしまいます。
21-2.マル生運動
「まるなま」ではありません。(私も最初そう読みましたが)「まるせい」と読みます。正式には「生産性向上運動」というもので、それらの書類に最初の「生」に丸をつけた印が付けられていたことからそのように呼ばれるようになりました。
これは磯崎新総裁が労使対立の事態打開のために、一般職員も管理職も一緒に協力して生産性を高めましょうという趣旨で始めたのですが、現場では「職員に意識革命をうながす精神運動」という形で実施されてしまいます。結局これは問題を改善するどころか、かえって一般職員の管理職に対する憎しみを増幅させることになってしまいます。
21-3.鉄建公団
十河総裁時代に抑えられていた採算性の乏しい地方路線の建設も、800億円の新幹線建設費不足問題を一手に引き受けた田中角栄蔵相(後の首相)がその設立に大きく関与したといわれる鉄建公団(日本鉄道建設公団)により、どんどん進められます。赤字ローカル線を廃止しても、ほぼ同じ距離の新しいローカル線ができてしまう。そんな悪循環に陥ってしまうのです。
アイキャッチ画像: [山手線車内を、反マル生運動のゼッケンを着けてデモする国労の組合員]「昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実」 牧 久著 講談社 p.74
「粗にして野だが碑ではない 石田禮助の生涯」 城山三郎著 文春文庫
「昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実」 牧 久著 講談社
「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社
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