国鉄の歴史(20):巨額債務のはじまり

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十河総裁なき後の国鉄は、昭和39(1964)年度決算から赤字へと転落し、その後二度と黒字になることはありませんでした。この年、収入の6,002億円に対して支出が300億円上回りました。そして、翌年以降さらに毎年雪だるまのように債務が膨らんでいったのです。

20-1.清廉潔白

石田総裁は、商売に徹した後の人生は、無給で世の中のために尽くすべきであるという信念を持っていました。そして、国鉄総裁という職はそうした「パブリック・サービス」に属するものであると考え、公邸も持たず、国府津から電車通勤を続けました。また、利権話など受け付けず、清廉潔白を貫きました。

しかしながら、鉄道の実務はよく知らず、また政治家や役人との付き合いも得意ではなかったようです。そのため、具体的な業務関係はすべて副総裁の磯崎叡に任せっきりになりました。

20-2.官僚組織と政治

石田は、第5代国鉄総裁に就任すると、すぐに鉄道省出身の磯崎叡を副総裁に任じました。十河総裁の任期中、磯崎と十河の反りが合わないことは国鉄の中でも噂になっていました。昭和37(1962)年に国鉄常務理事を退任後は、経営のため簿記学校に通って副総裁就任に声がかかるのを待っていたといいます。

十河は、「磯崎は政治家に弱い」と言ってよく怒鳴っていました。十河は、国鉄が官僚組織になったり政治に深入りすることを特に嫌いました。しかし、磯崎はそもそも有能な官僚であったため、官僚組織のトップを目指そうとして政治家に近づくというスタンスに十河が危機感を抱いたに違いありません。残念なことにその直感は的中し、その後国鉄総裁となった磯崎の任期中における国鉄赤字は坂を転げ落ちるようにしてますます悪化し、収支率はついに70%台へと落ち込んでしまいました。

20-3.崩れゆく国鉄

しかしながら、磯崎副総裁を中心に結束した人たちは都合の悪いことをすべて前総裁のせいにしました。そして、石田総裁の心も十河前総裁の掲げた方向性に疑問を持ち始めたかもしれません。

とはいえ、磯崎副総裁は、特に首都圏の通勤輸送力増強の必要性に懐疑的だった石田総裁の考えを改めるように促し、殺人的なラッシュの現場を目の当たりにした石田は謙虚に自分の間違いを認めます。そして、昭和40(1965)年の「第三次長期計画」において約7,000億円を投下し改善を図りますが、金利負担も増大する上に、この頃から労使対立(一般職員と管理職との間の対立)の問題が顕在化してゆきます。

 

国鉄の歴史(21):労使対立激化

 

アイキャッチ画像:(磯崎叡)「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社 p.180

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E5%B4%8E%E5%8F%A1

「十河信二」 十河信二傅刊行会

「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco

「粗にして野だが碑ではない 石田禮助の生涯」 城山三郎著 文春文庫

「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社

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