国鉄の歴史(終):老兵の消えて跡なき夏野かな

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昭和38(1963)年5月17日。国鉄総裁として最後の記者会見で十河は一句詠みました。

老兵の消えてあとなき夏野かな

23-1.十河信二死す

それから18年たった、昭和56(1981)年10月3日。十河信二は、入院していた鉄道中央病院で息を引き取りました。享年97歳。

10月22日、葬儀・告別式が高木文雄第8代国鉄総裁を葬儀委員長、藤井松太郎(当時交通協会会長)を葬儀副委員長として東京の青山葬儀所で執り行われました。葬儀後、遺影が十河同族会会長の手により一族の故郷高松に運ばれることになりました。はじめは航空機を使う予定でしたが、生前十河がもう一度新幹線に乗ってみたいとしきりにもらしていたことを聞き、急遽新幹線に変更しました。すると、乗り合わせた列車で専務車掌が遺影を安置するための台が置かれたグリーン車へと案内します。

岡山までの道中、乗客たちは次々と足を止めて深く拝礼し、それぞれすべての停車駅では駅長以下職員たちがホームに出て整列し、最敬礼で遺影を迎えて見送りました。

23-2.再建の試み

昭和58(1983)年12月1日、高木総裁は「再建の道を探して森の中をさまよい続け、とうとう抜け出せなかった」という言葉を残して辞職します。

代わって第9代国鉄総裁に就任したのは、島技師長時代に技師長室技師として活躍し、その後西武鉄道副社長や鉄建公団総裁を歴任した仁杉巌でした。昭和60(1985)年1月、仁杉総裁は収支に改善の兆しが見られるようになっていたこともあり、幹線を全国一元的に運営し、ローカル線は国鉄出資の子会社に任せるという案も含めた国鉄の「経営改革のための基本方針」を政府に提出しました。しかし、この提案はすでに国鉄を分割・民営化する方針を固めていた政府側との軋轢を生み、同年6月21日に仁杉総裁は退任に追いやられます。

最後の国鉄総裁は、杉浦喬也(たかや)でした。杉浦総裁は、いわば国鉄を分割・民営化するためだけに運輸省から送り込まれました。

23-3.国鉄の終焉

昭和62(1987)年3月31日深夜。東京の汐留貨物駅に運び込まれたC56蒸気機関車の汽笛の音と共に、国鉄はその最期の時を迎えました。

国鉄は、労使の対立や政治などの様々な力が絡み合い、経営黒字化および累積赤字の解消という公共企業体として最も重要な課題への取り組みは何度も先送りされてしまいました。そして、ついに「解体」されたのです。

<完>

 

国鉄の歴史(エピローグ):人類の未知への挑戦

 

「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco

「昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実」 牧 久著 講談社

「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで[昭和20年-昭和62年]」 所澤秀樹著 創元社

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