昭和33(1958)年11月1日、東海道本線に華々しく登場したビジネス特急「こだま」。当時大人気となった列車のおもな魅力を取り上げます。
1.パーラーカー
当時先進国に負けない設備と性能を持つ特急電車を作る、という方針で設計された151系ビジネス特急電車。航空機を超えるサービスを提供するべく設計された車両のハイライトは、何といっても「パーラーカー」の存在にあります。
日本で最もマナーの良い乗客をお招きするのにふさわしい、一流の落ち着きと品位を与える車内設計とするよう島秀雄技師長から指示されたその室内には、展望を良くするために 2m x 1m の大型複層窓が採用されました。
開放室では、中央通路の片側にそれぞれ1人かけの回転式シートを設置し、荷物棚はすっきりとした開放感を与えるために網棚ではなくガラス製の棚としました。区分室には2人かけソファーが向い合せに置かれ、さながら「走る応接室」でした。
By 国鉄 – 国鉄1960年発行パンフレットより、『鉄道ファン』No.371 1992年3月号付録, 日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2291861
日本国著作権消滅/米国フェアユース, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2291859
2.世界最高速記録
こだま形151系電車は最高速度160km/hを目標に設計されましたが、その性能限界の確認と新幹線が技術的に実現できることを証明するために高速度試験が行われることになりました。
昭和34 (1959) 年7月31日16時07分30秒。東海道線金谷-焼津間の上り線 東京起点202km付近で、当時の狭軌鉄道世界最高速度である 163km/h の記録に成功しました。
高速度試験に使用された編成の先頭車には、後にその功績をたたえたチャンピオンプレートが取り付けられました。
3.愛情を注がれた東海道電車特急
昭和39 (1964) 年9月30日。夢の超特急 東海道新幹線開業を翌日に控えたその日の14:30、最後の在来線特急「第2こだま」が東京駅を出発しました。
そして151系特急電車を受け持っていた田町電車区から、いよいよ最後の名古屋行き特急「おおとり」が出庫する時がやってきました。以下、福原俊一著「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」より引用させていただきます。
誕生以来苦楽をともにした区員たちは「特急電車を送る会」を催した。出庫する最後の編成をねぎらうように、串田正平区長以下幹部職員が御神酒を注いだ。営業運転初日の〈こだま〉に乗務し、運転助役に栄転していた岡山保もその一人だった。
「車体をなでながら、『ご苦労さん』の言葉をかけながら、御神酒をかけてやりましたね」
岡山は昨日のことのように語った。そして17時32分、最後の東海道電車特急として出庫していく〈おおとり〉の後ろ姿を、天塩にかけて育てた愛娘を嫁がせる日の父親のような眼差しで全員が見送った。
結局、ビジネス特急電車の東海道線での活躍はわずか6年間でした。しかしその後は山陽・九州地区に活躍の舞台を移し、さらには性能向上改造を経て上越線、中央線、信越線などで使用されました。そして、このデザインは国鉄特急列車の基本となって日本中を駆け巡ったのです。
アイキャッチ画像:「こだま」パンフレット/提供:星 晃 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.14
「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング
「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB