コラム:「東海形」と呼ばれる車両デザイン

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クハ153-500

近年まで東海道線など首都圏でもよく見られたいわゆる「東海形」と呼ばれる顔を持つ国鉄設計の電車。今回はそのデザインの背景に迫ります。

1.鼻筋を通す

昭和21(1946)年、当時国鉄車両局長だった島秀雄は、高速運転時の乗り心地を良くするための振動解析および台車構造の研究を行う高速車振動研究会を発足させました。その研究の成果を反映させて、昭和25(1950)年に東海道線の東京~沼津間に登場したのが80系電車です。

この電車は、当時の「電車は短距離用」という人々のイメージを塗り替えました。そして、湘南地域を走ったことから「湘南電車」と呼ばれるようになり、国鉄内部でも「湘南形」という通称で呼ばれるようになりました。

国鉄80系電車
国鉄80系電車

By 栗原 岳 (Gaku Kurihara) – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50969161

この写真は、前面のデザインが改良された「2次車」と呼ばれるグループのもので、「1次車」と呼ばれた最初に量産されたグループの車両(京都鉄道博物館に展示中)では全面の窓ガラスが3枚に分かれていました。この車両の設計を担当した星晃は、この1次車のデザインで島車両局長(当時)からほめられず、2次車でデザインを変更するように指示されました。

具体的には、

  • 二枚窓にすること
  • 前頭部に稜線を通すこと

の2点です。

星氏は、設計会議などで説明する際にこのコンセプトを分かりやすく伝えるため、「鼻筋を通す」という表現を作り出しました。この表現はその後、国鉄内部で広く使われるようになりました。

2.変な格好のものを作ってはダメですよ

その後、昭和32(1957)年になり、東海道線で電車特急を運転する計画が具体化すると、同時に準急・急行電車も製作する方針がまとまりました。前述の80系電車は10両編成と5両編成をつなぐ形で運用されており、それぞれの編成の間を行き来できないために車掌がそれぞれに乗務せざるを得なくなっていました。そのため、新しい電車では先頭部同士をつないだ時に通れるようにしてほしいという強い要望が営業および運転サイドから出ていました。

そこで今回その要望に応えて先頭部を貫通構造にすることになったのですが、そこで島技師長が出した指示は、

変な格好のものを作ってはダメですよ。

設計に当たった星は、このように語っています。

最初は湘南形のように前頭部の上面を傾斜させた形状を検討しましたが、貫通幌を取り付ける構造上、問題が多いので破棄し、垂直形で考えることにしました。その結果、幌を取り付ける貫通路とその両側を別々の平面にした三面形状を考えたのです。

また、当時は自動車が増えてきた時代でもあったため、踏切での視界を最大限に広げるために、隅部にも窓ガラスが回るようにしました。(パノラミックウィンドウ)

一枚物の曲面ガラスで製作すると、前面は大きなカーブになり価格も上がりますとメーカーにいわれ、あきらめました。そこで隅部にガラスを使い、前面部の平面ガラスと組み合わせて使うことにしました。ただ見かけ上は連続ガラスのようにしたかったので、両者を細い仕切棒で接合し、その外周をHゴムで取り付けたのです。

クハ153 0番台(当初案)
「東海形」当初のデザイン/「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」福原俊一著 p.117 より
クハ153 0番台
153系急行型電車 最終デザイン/「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」福原俊一著 p.119 より

3.「東海形」デザインの広がり

こうして出来上がった新しい準急・急行用電車のスタイルは「東海形」と呼ばれるようになり、昭和33(1958)年11月にモハ91形(後の153系)電車として東海道線にデビューしました。

その後、高速運転時の踏切事故に備えて運転席の床面を30cm高くする設計変更に合わせて窓の大きさや位置が変わる設計変更が行われましたが、この東海形の”顔”は国鉄最大数の先頭車になりました。昭和35(1960)年7月に製造された貴賓車にもこのデザインが採用され、私鉄車両のデザインにも影響を与えました。

クロ157
クロ157:皇室の小旅行用ならびに外国賓客用貴賓車 /「鉄道ファン」 2000年11月号 8ページ、編集部

 

「星晃が手がけた国鉄黄金時代の車両たち」 福原俊一著 交通新聞社

「星さんの鉄道昔ばなし」 星晃/米山淳一 JTB

「鉄道ファン」 2000年11月号 交友社

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