大蔵省の大隈重信のもとに新橋-横浜間鉄道建設の願書を提出した高島嘉右衛門。明治政府の若きホープ、大隈重信と伊藤博文はどう対応したのでしょうか?
1.明治政府の悩み
大隈は、重大事なので許可不許可は追って知らせる、と返事をして嘉右衛門を帰してから、急いで伊藤と連絡を取ります。二人の頭の中には、二つの大きな問題がありました。
すでにあった個人からの鉄道事業免許申請
実は、個人が鉄道事業の免許を申請したのは嘉右衛門が初めてではありませんでした。
幕末期、アメリカ公使館の書記官であったポルトメンというアメリカ人が、徳川幕府の老中小笠原壱岐守(いきのかみ)から江戸横浜間の鉄道敷設と使用の免許状を取得していたのです。ところが、明治新政府にはそのことを知る人が誰もおらず、嘉右衛門から大隈が願書を受け取った少し前にポルトメンから新政府名義のものと書き換えて欲しいという要求があって初めてそのことが発覚していたのです。
ただしこの免許状には”抜け穴”があり、免許状の日付が慶応3(1867)年10月24日の大政奉還から2週間後になっていてそもそも無効であったため、法的に見て正当にその要求を拒否することができました。
軍備増強のための費用優先
もう一つの問題は、後の陸軍大将であり明治新政府の当時最大のキーマンであった西郷隆盛の主張です。西郷は、植民地主義の支配的な西洋列強に対抗するための軍備増強を最優先にすべしということで、鉄道建設に大反対だったことです。
2.大隈と伊藤の出した結論
大隈と伊藤は、時代を先取りする先見の明に優れた嘉右衛門の発案は無視できないと考えました。しかしながら、明治新政府が個人に鉄道経営という絶大な権利を与えたとなるとそれこそ西郷が黙っているはずはありません。かといって、嘉右衛門に不許可と通知すれば、ではなぜポルトメンには免許状が出されたのか筋が通らないということでまた別の大問題となります。
そこで二人は悩んだ末、苦渋の選択として嘉右衛門に返事をする前に彼と100万ドルの仮契約を交わしたイギリス人、ネルソン・リーと面会します。そして明治新政府代表として直接交渉し、仮契約をまとめました。こうして、結果的に嘉右衛門を出し抜く形で国家主導の鉄道建設が始まりました。
とはいえ、嘉右衛門は当時入江となっていて海だった現在の青木橋付近(京急神奈川駅近く)から野毛のあたり(JR桜木町駅近く)をほぼ直線で結ぶための埋立工事を請け負うことになりました。その埋立地が後に「高島町」と呼ばれるようになり、現在の横浜駅の所在地であるのです。
3.日本最初の旅客鉄道開業
明治5(1872)年5月5日の品川-横浜間の暫定開業を経て、10月14日に明治天皇ご臨光の「新橋汽車お開き式」が行われ、天皇と明治政府の高官たちを乗せた列車が午前10時に横浜に向けて新橋駅を出発しました。
高島嘉右衛門は、開通式翌日に横浜からの始発列車に乗って新橋まで2往復しながら、子供のように大喜びではしゃいでいたと伝えられています。その後も嘉右衛門と鉄道の縁は深く、北海道炭礦鉄道株式会社や東京市街鉄道株式会社の社長を歴任しました。
大正3(1914)年10月17日、高島嘉右衛門は老衰のため横浜高島台の自宅で亡くなりました。享年83歳。辰野金吾が設計した中央停車場(東京駅)開業の約2ヶ月前でした。亡くなられる三か月ほど前、すでに自身の死期を悟られていた時に語られたという嘉右衛門さんの言葉を引用してこの話の結びとさせていただきます。
日本全土を鉄道の網でおおいつくすということは、明治二年に私が初めて計画したことでした。この夢が実現し、東京に中央停車場が完成したら、その日のうちに死んでも悔いはないと、そのときは思いつめたものです。幸いその年にイギリスから帰国した井上勝君が一生を賭けてこのことにあたってくれたので、私の夢も実現しましたが…東京停車場の落成祝いにはとうてい出席は出来ますまい。まあ、この家からも汽車の通行は眼下に見おろせます。私が若いころ埋めたてた土地の上に建設された線路を走って。高島町の駅に東京駅発の蒸汽車が通るのは、あの世から見物しましょうか。
アイキャッチ画像:「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社 p.169
https://ja.wikipedia.org/wiki/高島嘉右衛門
「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社
「「横浜」をつくった男」 高木彬光著 光文社文庫
「日本鉄道物語」 橋本克彦著 講談社文庫
[…] コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(2/2) に続く […]
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