伊藤博文

コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(2/2)

大蔵省の大隈重信のもとに新橋-横浜間鉄道建設の願書を提出した高島嘉右衛門。明治政府の若きホープ、大隈重信と伊藤博文はどう対応したのでしょうか? 1.明治政府の悩み 大隈は、重大事なので許可不許可は追って知らせる、と返事をして嘉右衛門を帰してから、急いで伊藤と連絡を取ります。二人の頭の中には、二つの大きな問題がありました。 すでにあった個人からの鉄道事業免許申請 実は、個人が鉄道事業の免許を申請したのは嘉右衛門が初めてではありませんでした。 幕末期、アメリカ公使館の書記官であったポルトメンというアメリカ人が、徳川幕府の老中小笠原壱岐守(いきのかみ)から江戸横浜間の鉄道敷設と使用の免許状を取得していたのです。ところが、明治新政府にはそのことを知る人が誰もおらず、嘉右衛門から大隈が願書を受け取った少し前にポルトメンから新政府名義のものと書き換えて欲しいという要求があって初めてそのことが発覚していたのです。 ただしこの免許状には”抜け穴”があり、免許状の日付が慶応3(1867)年10月24日の大政奉還から2週間後になっていてそもそも無効であったため、法的に見て正当にその要求を拒否することができました。 軍備増強のための費用優先 もう一つの問題は、後の陸軍大将であり明治新政府の当時最大のキーマンであった西郷隆盛の主張です。西郷は、植民地主義の支配的な西洋列強に対抗するための軍備増強を最優先にすべしということで、鉄道建設に大反対だったことです。 2.大隈と伊藤の出した結論 大隈と伊藤は、時代を先取りする先見の明に優れた嘉右衛門の発案は無視できないと考えました。しかしながら、明治新政府が個人に鉄道経営という絶大な権利を与えたとなるとそれこそ西郷が黙っているはずはありません。かといって、嘉右衛門に不許可と通知すれば、ではなぜポルトメンには免許状が出されたのか筋が通らないということでまた別の大問題となります。 そこで二人は悩んだ末、苦渋の選択として嘉右衛門に返事をする前に彼と100万ドルの仮契約を交わしたイギリス人、ネルソン・リーと面会します。そして明治新政府代表として直接交渉し、仮契約をまとめました。こうして、結果的に嘉右衛門を出し抜く形で国家主導の鉄道建設が始まりました。 とはいえ、嘉右衛門は当時入江となっていて海だった現在の青木橋付近(京急神奈川駅近く)から野毛のあたり(JR桜木町駅近く)をほぼ直線で結ぶための埋立工事を請け負うことになりました。その埋立地が後に「高島町」と呼ばれるようになり、現在の横浜駅の所在地であるのです。 3.日本最初の旅客鉄道開業 明治5(1872)年5月5日の品川-横浜間の暫定開業を経て、10月14日に明治天皇ご臨光の「新橋汽車お開き式」が行われ、天皇と明治政府の高官たちを乗せた列車が午前10時に横浜に向けて新橋駅を出発しました。 高島嘉右衛門は、開通式翌日に横浜からの始発列車に乗って新橋まで2往復しながら、子供のように大喜びではしゃいでいたと伝えられています。その後も嘉右衛門と鉄道の縁は深く、北海道炭礦鉄道株式会社や東京市街鉄道株式会社の社長を歴任しました。 大正3(1914)年10月17日、高島嘉右衛門は老衰のため横浜高島台の自宅で亡くなりました。享年83歳。辰野金吾が設計した中央停車場(東京駅)開業の約2ヶ月前でした。亡くなられる三か月ほど前、すでに自身の死期を悟られていた時に語られたという嘉右衛門さんの言葉を引用してこの話の結びとさせていただきます。 日本全土を鉄道の網でおおいつくすということは、明治二年に私が初めて計画したことでした。この夢が実現し、東京に中央停車場が完成したら、その日のうちに死んでも悔いはないと、そのときは思いつめたものです。幸いその年にイギリスから帰国した井上勝君が一生を賭けてこのことにあたってくれたので、私の夢も実現しましたが...東京停車場の落成祝いにはとうてい出席は出来ますまい。まあ、この家からも汽車の通行は眼下に見おろせます。私が若いころ埋めたてた土地の上に建設された線路を走って。高島町の駅に東京駅発の蒸汽車が通るのは、あの世から見物しましょうか。 COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社 p.169 https://ja.wikipedia.org/wiki/高島嘉右衛門 「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社 「「横浜」をつくった男」 高木彬光著 光文社文庫 「日本鉄道物語」 橋本克彦著 講談社文庫

コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(1/2)

毎年10月14日は「鉄道の日」。それは、明治5(1872)年のその日に日本で初めての旅客鉄道が新橋(後の汐留貨物駅、現在は廃止)と横浜(現在のJR根岸線桜木町駅)を結ぶ路線で開通したことに由来します。この鉄道建設は、日本の近代化を進めるために明治政府の大隈重信と伊藤博文が中心となって発案されて推し進められた、という話は多くの人の知るところとなっています。しかし実は、ある一人の人物がそもそものきっかけを作っていたのをご存じですか? 1.高島嘉右衛門 その人物とは、高島嘉右衛門(たかしま かえもん)です。天保3(1832)年11月1日、江戸三十間堀町(現在の東京都中央区銀座三~七丁目あたり)の材木商兼土木請負業を営む家に生まれた高島嘉右衛門は、実業家として横浜の発展に非常に大きな貢献をされました。その数多くの功績の中には、日本で初めてのガス灯事業や、多額の私財を投じて語学を中心にした洋学教育の塾を開設するなど多岐にわたっています。 高島嘉右衛門は、実業家であったと同時に易断による占いを極め、「易聖」とも評されています。その的確な易断から、明治新政府の高官たちも嘉右衛門からの助言を求めて多数訪れました。例えば、日清戦争と日露戦争の行く末を占った内容は当時の新聞記事にも掲載されました。 2.鉄道建設計画 明治2(1869)年9月10日。嘉右衛門は、「我が国ホテルの先駆」とも呼ばれる自身の事業で蓄えた私財を投じて太田屋新田(現在の横浜市中区常盤町あたり)に建てた旅館「高島屋」(※現在あるデパートとは無関係)に宿泊するためにやってきた大隈重信(後の第8・17代総理大臣)と伊藤博文(後の初代総理大臣)の夕食の際に座敷へ呼ばれます。そして、伊藤博文は嘉右衛門にこう尋ねます。 われわれは目先の問題の処理に追われて、遠い将来の計画が樹てきれなくなっているのですよ。日本のためにいま一番の急務はなんでしょうかね。 そこで嘉右衛門はこう答えます。 蒸気車の敷設ではないでしょうか。最初は異人さんの技師の手を借りなければならないとしても、いずれは日本人だけの手でレールも敷け、機関車、客車も走らせられるのではありませんかな。極端なことをいえば、明日からでも準備にかかるべきでしょう。個人の事業としてもしお許しをいただけますなら、私がおひきうけして東京-横浜間の鉄道を建設いたしましょうか。 二人は「まあ、その話はいずれゆっくり考えましょう」と話を打ち切りましたが、その夜、嘉右衛門は自身のたてた易の結果を見て4年以内に全通すると判断しました。 3.願書提出 そこで問題になるのが資金ですが、最低でも100万ドルという条件の資金をどこから借り入れるのか。何と、嘉右衛門はあるイギリス人から政府からの鉄道敷設免状を担保としてそれだけの資金を調達するための仮契約を結ぶことに成功します。そして嘉右衛門は大蔵省の大隈重信のもとを訪れて鉄道建設の願書を提出してから、こう話します。 東京側の中央停車場は、浅草あたりがよいかと心得ます。そうすれば将来、北へ鉄路がのびますときにも便利と存じますが。 さて、その結果やいかに...。 コラム:新橋-横浜間鉄道開通の意外な仕掛け人(2/2) に続く COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社 p.120 https://ja.wikipedia.org/wiki/高島嘉右衛門 「高島嘉右衛門 横浜政商の実業史」 松田裕之著 日本経済評論社 「「横浜」をつくった男」 高木彬光著 光文社文庫 「日本鉄道物語」 橋本克彦著 講談社文庫

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