1985年2月、翌月に引退する東京-大阪を結ぶ夜行寝台急行「銀河」号の20系客車の写真を撮りに大船駅に行った小学5年生の私ですが、そのすぐ後に衝撃的な知らせが飛び込んできました。
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1.父のアメリカ駐在
当時、私の父は松下通信工業(現パナソニック)に勤めていました。大船駅の写真撮影から1ヶ月ほど経ったある日、父の海外赴任が決まったというのです。駐在先は、米国カリフォルニア州ロサンゼルス郊外にあるオフィス。父は辞令が出たのですぐに赴くことになり、母と姉と小学6年生になったばかりの私も、夏休みまでに家財をまとめて引っ越すことになりました。
そんなわけで、急遽数ヶ月間でしたが英会話教室に通うことに。その頃は、小学校で習うのはローマ字だけでしたから、英語なんてまったくちんぷんかんぷんです。まさか自分が日本を離れて生活することになるとは夢にも思っていなかったので、本当にショックでした。しかし、何よりも一番がっかりしたのは、国鉄の列車に乗る機会がほとんどなくなることでした。
2.ロサンゼルスと鉄道
しかも、今でこそロサンゼルス中心部には、日本製の車両が走る Metro (路面電車)や在来線を使った通勤列車 “Metro Link” などが充実してきましたが、1985年当時はほぼ完全に車社会。鉄道そのものに触れる機会が激減してしまいました。私の中で、何でこんな鉄道とまったく縁のないところに連れてこられたのだろう、と正直恨めしい気持ちがあったのも事実です。
そんなロサンゼルスも、実は19世紀末~20世紀初頭の日本でいう明治~大正期頃は市内はもとより郊外まで続く電車(汽車ではない)ネットワーク網が張り巡らされていたという事実は、意外と知られていません。私も、父の転勤について行った頃はそんな歴史を知らずに、近所の使われなくなった貨物線の線路を見ながら「ここに電車が走ったら良いな~」とか考えていました。まさにその線路の上を今からさかのぼること100年くらい前に赤い電車が行き交っていたことを私が知ったのは、恥ずかしながらまだ数年前の話です。
3.What is “Blue Train”?
1985年当時も、すでにロサンゼルスなどの米国の大都市圏の小中高校には、海外から移民してくる子供たちが現地で育った子たちの英語力に追いつくための ESL (English as Second Language 略)クラスというものがあり、私も高校生になるまでそこで4年ほどかけて追いかけました。
アメリカに引っ越してしばらくたった、まだ小学6年生の頃のある日。ESLのクラスにいる子供たちが、通常クラスの子供たちの前に立って、自分たちの母国について質問に答えるという場がありました。私もクラス生徒の前に立って、日本についての質問を受けました。
「何で日本はそんなに地震が多いんだ?」
「ニンジャってまだいるのか?ゲイシャはどうだ?」
「フジヤマってどれほど高いんだ?」
「Bullet train (弾丸列車、新幹線のこと)ってどんだけ速いんだ?」
とかそんな質問を受けましたが、今でもとても鮮明に記憶に残る質問は、
「ブルートレインって何だ?」
というものです。ブルートレインが、海外で日本という国レベルの代表的なものの一つとみなされるほどの知名度を持っているのか、としみじみ感じました。
さて、当時ロサンゼルス地域で「世界最大の電気鉄道」を自称していた Pacific Electric とは、いったいどんな鉄道だったのでしょうか。次回から、その歴史を取り上げて行こうと思います。