20世紀初頭、「世界最大の電車ネットワーク」と呼ばれた Pacific Electric(パシフィック・エレクトリック)。米国カリフォルニア州で、総延長約800キロにも及ぶ巨大な鉄道網を有する会社はどのようにして誕生した […]
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20世紀初頭、「世界最大の電車ネットワーク」と呼ばれた Pacific Electric(パシフィック・エレクトリック)。米国カリフォルニア州で、総延長約800キロにも及ぶ巨大な鉄道網を有する会社はどのようにして誕生した […]
1985年2月、翌月に引退する東京-大阪を結ぶ夜行寝台急行「銀河」号の20系客車の写真を撮りに大船駅に行った小学5年生の私ですが、そのすぐ後に衝撃的な知らせが飛び込んできました。
昨日6月17日午前6時に、東洋経済オンラインニュースとして私の活動を取り上げていただいた記事がネット上に配信されました。 東洋経済オンライン「「公園のブルトレ」修復に取り組む社長の熱意」 Yahoo! ニュース ヘッドラ […]
「新幹線の父」である十河信二は、国鉄総裁時代に当然のことながら東海道新幹線の建設を最優先にしました。では、十河にとって在来線とはどのような位置付けだったのでしょうか。
昭和39(1964)年10月の東海道新幹線開通を記念して、東京駅には2つの記念碑があります。今回は、それらにまつわるエピソードを取り上げます。
昭和39(1964)年10月1日の東海道新幹線出発式に、十河前総裁と島前技師長の姿はありませんでした。
製造総数3,447両。形式ごとの量産総数で、実は世界一といういまだ破られていない記録を持つこの電車の生い立ちに迫ります。