昭和30(1955)年、当時の運輸大臣は後に第66代首相となった三木武夫でした。三木は、トラブル続きで総裁不在となった国鉄への信頼回復と内部の建て直しのために当初外部の財界人を総裁として起用しようとしましたが、誰も引き受ける人はいませんでした。
国鉄の大改革を成し遂げられる人は誰か。
三木が目を付けたのは、当時すでに71歳の高齢となっていた十河信二でした。
3-1.経歴
十河は、戦前に国鉄の前身である鉄道院初代総裁、後藤新平にスカウトされ、社会人としての第一歩を鉄道院で踏み出した経歴を持っていました。またその後、旧満州の南満州鉄道理事も務め、そのキャリアは鉄道と深く関わりのあるものでした。しかし、十河はすでに現役を退いていた上に、その前年に自宅近くの国府津駅で倒れ5ヶ月も入院しており、持病の不整脈もあって、とても健康状態は良いものではありませんでした。
十河は国鉄総裁就任への要請に対して、申し訳ないがとてもその職務に耐えられないと断りました。
3-2.就任要請
ついに三木は十河に言いました。
君が社会人としてスタートしたのは国鉄ではないか。いわば、国鉄は君の祖国だ。今、国鉄は危急存亡の運命に際し、城を守る城主もなく苦しんでいる。君は老人だから、病身だからといって祖国を守らずに逃げようとするのか。一死報国の覚悟はないのか。そんなに命を惜しむ卑怯者であったか。
三木は、十河とは旧知の仲で、こういう言い方をすると十河がどんな反応をするのかよく知っていたのです。十河の心は揺れ始めました。
3-3.決意
ついに決意を固めた十河は、三木にこう迫ります。
日本が大転換期にある中、国鉄は瀕死の危機に直面し、根本的手術の必要に迫られている。その八割は赤字線である上に、そこに追加建設を強要されている。鉄道斜陽化を挽回し新天地を展開しなければ、国鉄の命運は終わりかねない。しかし、国鉄総裁には何の権限もない。よって国鉄に自主性を与えよ。国鉄経営について政府の方針も十分に傾聴するが、最後の決定は責任者たる国鉄総裁に一任すべきである。この点を政府・与党は承認するか?
三木はこれに対し、
①国鉄に自主性を与えること
②最終決定権は総裁に一任すること
③赤字線の建設を国鉄に強要しない
という条件を約束しました。
こうして昭和30(1955)年5月20日、十河信二は第4代国鉄総裁に就任しました。
そして、そこにはある構想への十河の強い情熱が秘められていたのです。
アイキャッチ画像:[Sogo (center) with Transportation Minister Takeo Miki (left) at the press conference in 1955 announcing he had accepted presidency of the Japanese National Railways (JNR).] From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way.
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