国鉄の歴史(2):相次ぐ大事故

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初代総裁が就任からわずか1ヶ月で怪死を遂げるという不穏な門出となった国鉄は、その後も多発する重大事故により次々と総裁が辞任する事態が続きます。

2-1.桜木町事故

加賀山之雄第2代国鉄総裁就任から3年目の昭和26(1951)年4月24日、京浜東北線桜木町駅で悲惨な大事故が起きます。物資が不足していた戦時設計のため、多くの木材を使用していた63系電車のパンタグラフ(集電装置)が架線に絡まり、垂れ下がった電線が電車の屋根に接触してショート。散った火花で瞬く間に電車全体が炎に包まれ、200人近い死傷者を出してしまったのです。これが有名な「桜木町事故」で、加賀山総裁はこの事故の責任を取って辞任します。この時、国鉄の車両局長であった後の技師長、島秀雄も一連の事故処理完了のタイミングで辞職しています。

2-2.洞爺丸・紫雲丸事故

続く第3代国鉄総裁に就任したのは、国鉄の前身である鉄道省の次官であった長崎惣之助でした。長崎総裁の任期4年目の昭和29(1954)年9月26日、今度は青函トンネルがまだ存在しない青森-函館間の海上輸送手段であった青函連絡船「洞爺丸」沈没事故が発生します。当時台風15号の接近により大荒れとなっていた中、つかの間の小康状態で出航した洞爺丸は港を出た直後におりからの暴風雨にあおられ座礁し沈没。死者行方不明者合わせて1,000人以上の犠牲者を出す大惨事となり、長崎総裁に対して責任を取って辞任すべきとの声が高まりました。

長崎総裁が事故原因の究明と補償問題に奔走する中、それから1年もしないうちにさらに追い討ちをかけるように、今度は瀬戸大橋がまだ存在しない宇野-高知間の瀬戸内海、宇高連絡船「紫雲丸」が同じ国鉄の貨物船と衝突し沈没するという大事故が発生。修学旅行中の小中学生を含む死者行方不明者160人以上を出す大惨事が起きるのです。長崎総裁は辞任せざるを得なくなりました。

2-3.国鉄の危機

このような大事故が続く中、国鉄への人々の不信感は日増しに高まりました。また、国鉄内部においても職員の士気が落ち、ストライキが頻発して労使関係は険悪な状態へと落ち込んで行きます。誰が総裁として国鉄を建て直すのか。もはや総裁を引き受ける人はいないのでは-そんな状況の中、ある人物に白羽の矢が立ちます。

 

国鉄の歴史(3):十河信二総裁の登場

 

不屈の春雷(下)十河信二とその時代 牧 久著 ウェッジ

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