国鉄の歴史(10):有法子

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1983

予想以上の大成功を収めた山葉ホールでの講演会でしたが、なぜか翌日の十河総裁は不機嫌でした。

10-1.御前講演

俺も聞きたかったのになぜ日を延ばしてくれなかったんだ!

十河総裁は、講演会が行われた日は参加するのに都合が悪いのでほかの日にしてほしいと言っていたのですが、それが連絡ミスで鉄道技術研究所の篠原所長に伝わっていなかったのです。技研のスタッフは、その数日後に急遽十河総裁、島技師長ほか数人の理事の前で山葉ホールでの講演会を再現することになりました。

講演会を主催した鉄道研究所所長、篠原武司は四国鉄道管理局長を務めたことがありましたが、その初代局長は十河総裁の故郷である西条市出身の井上禎一でした。十河総裁は、同郷の井上元局長を介して篠原と知り合い、交友を深めていました。篠原を鉄道研究所所長に引き抜いたのは十河総裁でしたが、その際広軌新幹線への熱い思いを語っていました。

10-2.全国行脚

こうして国鉄内外に大きく知れ渡った広軌新幹線構想ですが、その後十河総裁は全国の鉄道管理局、機関区、電車区や主要駅などをまわり始めました。十河総裁はこの行脚を「有法子運動」と名づけました。「有法子(ユーファーズ)」とは、中国語で『諦めるのはまだ早い。方法はある。』という意味です。これは彼の座右の銘で、その生き方全体に表れています。東京・国分寺の「中央鉄道学園」や全国の駅長室や現場長室にも総裁自筆の「有法子」の書が掲げられました。

10-3.じいさん、がんばれ

あきらめずに皆で努力すれば、必ず実現できる。

十河総裁はそう言って、現場の職員に次々と声をかけました。広軌新幹線など夢物語だ、と言い聞かされていた職員たちに対して十河総裁は直接語りかけ、

広軌新幹線は国鉄の光明だ。光明のないところに事故は起きる。

と説きました。すると、現場からやがて「じいさん、がんばれ!」の声援が沸き起こったのです。

 

国鉄の歴史(11):幹線調査室

 

アイキャッチ画像:From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way.

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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