昭和32(1957)年7月29日、国鉄に「幹線調査室」が設置されます。それは、運輸省幹線調査会における議論を円滑に進めるための事務局としての位置付けでした。
11-1.大石重成 幹線調査室室長
幹線調査室の室長には、大石重成がアサインされました。大石は、北海道支社長でしたが、島技師長の招請で東京本社に戻っていました。二人とも、実は戦前の鉄道省の弾丸列車計画に携わっていたのです。昭和14(1939)年8月、当時の幹線調査課で島が機関車の設計、大石が設計担当課員としてルートおよび土木計画の策定を担当していました。
大石は、弾丸列車計画の際に東京-下関間(約985km)を何とすべて歩いて様子を確認していました。それは、自らの目で直接見てそのすべてのルートをきちんと確かめておくべきという信念があったからです。その時、一緒に歩いてくれた同僚にこう言いました。
今回は、残念だが、戦局悪化で中止になるかもしれない。…だが、将来きっとまた、チャンスが来る。
そして、その言葉の通りになりました。
今回も室長着任早々、大石は東京-大阪間(約500km)の新幹線が建設されるであろうルートをすべて歩いて直接隅々までチェックしたのです。
11-2.大蔵公望 国鉄幹線調査会会長
運輸省には、国鉄幹線調査会が置かれました。その会長には、十河総裁の強い要望によって、大蔵公望(おおくらきんもち)が就任しました。
大蔵は、十河より3歳年上で鉄道省では同期でした。大蔵は東京帝国大学(現東京大学)卒業後、単身アメリカ大陸に渡り米国のミズーリ・パシフィック鉄道やヴァージニアン鉄道などの現場で4年もの間働き、土木工学や保線技術をしっかりと習得したという異色の経歴を持っていました。帰国後鉄道省でさらに現場の下積みを重ね、十河と同じ時期に課長に昇格しています。
11-3.起工式に向けての疾走が始まる
大蔵公望の国鉄幹線調査会長就任は容易なことではありませんでした。その約2年前に十河と同様に脳梗塞で倒れ、しかもずっと自宅療養中の身だったのです。十河総裁は大蔵にこう語りました。
大蔵さん、弾丸列車を完成させましょう。大蔵さんにとっても夢に終わらせたくないはずだ。ぼくは討ち死にする覚悟です。どうかご尽力を…。
大蔵は苦笑しながら答えました。
…十河の頼みなら、断れないな。
新幹線起工式に向けて、ドリームチームの疾走が始まりました。
アイキャッチ画像:[大石重成] 「「夢の超特急」、走る! 新幹線を作った男たち」 碇 義朗著 文春文庫 p.109
「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著 deco
「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社
「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ
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