国鉄の歴史(15):鴨宮実験線

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昭和37(1962)年4月20日、後に東海道新幹線の一部となる神奈川県の鴨宮-綾瀬間約32キロの区間が完成し、数々のテストが行われる場所となりました。「鴨宮実験線」の誕生です。6月26日には、十河総裁を招き初の公開試運転をしました。満面の笑みを浮かべ、運転席の窓から身を乗り出した十河総裁は、手を振り続けます。

15-1.既存技術の組み合わせ

新幹線には、未経験の新技術は原則として使っていない。既存の、経験済み技術の集大成(です)。技師長のわたしは、まとめ役にすぎません。

島技師長は、常々このように語っていました。小田急ロマンスカーや、新幹線開通前に東京-大阪間の日帰り出張を可能にしたビジネス特急「こだま」号などでの実績を踏まえた技術を組み合わせれば、新幹線の実現は可能だと確信していました。

後に島技師長はこのように書いています。

ビッグ・プロジェクトに取り組む場合、あらゆる条件を考慮して、もっとも合理的な体系を作ることが重要である。膨大な情報、技術を有効に組み上げて活用し、目的を達成すること。つまりシステム工学的な発想が必要なのである。

島技師長は、国鉄の技術開発チームを、組織や人間関係も含めたプロジェクト全体を総合的にすべて一通り把握できると同時に、何かが起きた時には自分がきちんと責任を取れる体制としました。

15-2.世界最高時速256キロ

毎日少しずつ延びる鴨宮実験線には、タイやエジプトからの鉄道関係者や、米国駐日大使夫妻などを試乗に迎えて開業までに延べ10万とも15万とも言われる大勢の人々が訪れました。

昭和38(1963)年3月30日には、当時の電車最高速度記録を時速256キロで塗り替えました。線路は、激しい蛇行動(高速により左右に揺れる現象)により曲がってしまいましたが、後の安全な営業運転のための貴重なデータが得られました。

鴨宮実験線の現場で作業に当たっていた職員たちは、週末の休みなどないほど多忙を極めていましたが、不平の声は上がりませんでした。この世界最高速記録を打ち立てた運転士、大塚滋はこう語っています。

楽しくてしようがなかったんですよ。いま振り返ってもあんなに楽しいことはなかった。

15-3.東京オリンピック

その頃、すでに昭和39(1964)年の東京オリンピック開催は決定しており、十河総裁はそれまでに完成させるようにという号令を出していました。夢の超特急建設が急ピッチで進んでいましたが、この時期ある大事件が起きていました。

 

国鉄の歴史(16):十河総裁辞任

 

画像: 氷鷺 – 投稿者作成, GFDL-no-disclaimers, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2085822

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco

「新幹線を作った男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」 髙橋団吉著 PHP文庫

「「夢の超特急」、走る!新幹線を作った男たち」 碇義朗著 文春文庫

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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