国鉄の歴史(14):東海道新幹線建設

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世界銀行からの融資調達からさかのぼること約2年。昭和34(1959)年4月20日、静岡県の新丹那トンネル(熱海-函南間)の熱海口で、関係者80名ほどが集まり新幹線起工式が行われました。

14-1.起工式

トンネルを掘るのは工事の中で最も時間と工数がかかる部分であり、そのような箇所から始めるのが鉄道工事の常識となっていました。東海道新幹線起工式では、まず神主が儀式を執り行った後、鍬入れの儀式に移りました。

金色に縁取られた鍬を手に取った十河総裁は、それを大きく振り上げると、「エイッ、エイッ」という掛け声と共に思いっきり振り下ろします。通常これは「儀式」なので、そっと軽く鍬を入れる形だけ取るのですが、十河総裁は気合たっぷりに三度も砂山に打ち下ろしました。すると、最後に鍬の頭が抜けて観客の前に転がるハプニングに。その日の新聞夕刊記事には、「クワを持つ十河総裁は儀式であることを忘れているかのようにみえた」と報じられました。

14-2.任期切れ

実は、この起工式のわずか1ヵ月後に、十河総裁の4年の任期が終了することになっていたのです。そして、一部の政治家たちは地方路線の新設をせずに新幹線に予算を集中させる十河総裁のやり方に不満を募らせていました。その頃、メディアもさかんに「政府は十河に勇退を求める腹を固めた」と報道していました。

14-3.再任

そんな中、十河総裁の更迭を公言していた永野護運輸相に対して、国鉄の現場長たちが十河解任反対運動を起こします。国鉄技術陣は佐藤栄作蔵相に、財界からは西武系の総帥、堤康次郎が岸首相にそれぞれ直訴。こうした動きに呼応してマスコミも一気に「十河を救え」という論調となりました。

政府が十河総裁再任という大逆転の決定をしたのは、この起工式の2日前でした。決定打になったのは、吉田茂元首相から佐藤蔵相への十河留任を求める一本の電話だったと言われます。十河総裁退任を唱えた永野運輸相は、同じくこの起工式の2日前に『健康上の理由』により自ら辞表を提出し、辞任しました。

このような状況でしたから、十河総裁の鍬を持つ手にも必要以上に力がこもったのも無理はありません。

こうして、十河総裁指揮のもと、新幹線建設は破竹の勢いで進んで行きます。

 

国鉄の歴史(15):鴨宮実験線

 

アイキャッチ画像:[Sogo, at the ground-breaking ceremony for the Bullet Train project, swung his hoe so vigorously that the head flew off. Courtesy of The Railway Technical Research Institute, Tokyo.] From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way.

「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ

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髙橋 竜(たかはし りゅう) 横浜市生まれ、ロサンゼルス育ちの49歳。法政大学経済学部卒。所属は、某外資系IT企業と COQTEZ ブランドをプロデュースする合同会社ビイエルテイ 代表。ボランティアとして、福岡市に保存されている国鉄ブルートレイン車両「ナハネフ22 1007」の保存修復活動を2009年より継続中(任意団体 ナハネフ22 1007修復プロジェクト委員会 会長)。横浜市在住。趣味は鉄道(メインはやはり国鉄)、料理、ドラム。愛が込められたプロダクトデザインとしての国鉄車両とあらゆる意味での持続可能性が高い経営という組み合わせの実現を夢見ています。

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