十河

コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか

#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。 昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立することになりました。 でも、なぜ臨時だったのでしょうか? 1.表向きの理由 翌年昭和33(1958)年からの「五か年計画」が取りまとめられており、その計画の目的には老朽化した車両を新しいものに置き換えることが含まれていました。ですから、5年間という区切られた時間が終われば、車両の設計業務も一段落することになるのでそれまでの臨時セクションである、というわけです。 しかし、その決定に実はもっと複雑な背景がありました。 2.組織改革の背景と経緯 まず、その頃は初代ブルートレイン車両となる20系客車や、新形通勤電車のモハ90形(101系)電車など、新しい技術を盛り込んだ車両が数多く設計されており、従来の工作局客車課と動力車課の中では組織としてそうした設計業務の増加に効率的に対応するのが難しくなっていました。 しかも、当時の国鉄は本社管理部門の機構簡略化と人員削減を進めており、車両設計にあたる要員が減らされては困るということで小倉俊夫副総裁と島秀雄技師長が話し合って決めたとされています。 By ​Japanese Wikipedia user Rittetsu-Master, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7374232 3.「臨時」と付けた本当の理由 本当の理由は、この組織改編の少し前に起きていた出来事から紐解くことができます。 広軌新幹線に対する調査会メンバーの煮え切らない態度に十河信二総裁がブチ切れた、東海道線増強調査会の4回目の会合(国鉄の歴史(8):国鉄内部の攻防 参照)があったのがその年の1月23日。2月4日の5回目の会合で調査会は打ち切りとなったばかりでした。 この時点では、新幹線が本当に実現できるかどうかという確証はありませんでした。確かに十河総裁は強力ですが、回りに敵も多く、老齢であり持病もある。さらに、技師長職の任期は3年で基本的に再任はないというのが原則であったことからすると、可能性として計画が挫折するリスクがあります。 であれば、島技師長が「少なくとも自分の任期中に夢の超特急は技術的に可能であることを証明する数々の新型在来線車両を、できる限り実現しておきたい」と考えられたとしても不思議ではありません。車両設計部門を国鉄内部から切り離して「車両設計事務所」という技師長直属の組織とすれば、作業を進めるのに運輸省や国鉄幹部からのハンコをもらうための無駄な時間を回避できるというメリットが生まれます。 しかしながら、なぜこれまでの体制を変えなければいけないのかという根強い反発が起きてしまいました。そこで、その名称の頭に臨時と付けた上で前述の表向きの理由となったのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   コラム:3系列の国鉄ブルートレイン 「「夢の超特急」、走る!新幹線を作った男たち」 碇義朗著 文春文庫 「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで」 所澤秀樹著 創元社 「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著 deco

コラム:十河信二と在来線

「新幹線の父」である十河信二は、国鉄総裁時代に当然のことながら東海道新幹線の建設を最優先にしました。では、十河にとって在来線とはどのような位置付けだったのでしょうか。 1.日本国という体とその血管 十河総裁は、ある時国会で「総裁は新幹線ばかりやっていて、地方線をつくらないではないか」という質問を受けました。確かに、国鉄の歴史(5):「君たちに夢を」 で取り上げたように、単なる政治的な目的での鉄道路線の建設には反対でした。十河総裁は、こう答えました。 私の尊敬する後藤新平総裁は医者でした。後藤総裁は人間の身体の血管は心臓に近づくほど太くなっている。心臓の周辺が太くなっていることが、端々の毛細血管にとって非常によいことだそうです。だから、東京~大阪の大動脈が太いということは、結局は地方の線区も、それによって裨益します。東海道沿線は、全国総人口の約40%を占めています。工業生産額も全国の60%以上を占める製造工業の中心地帯であります。だからここに、いくら設備投資してもペイすると思います。 2.具体的な方針 十河は総裁は、赤字線の建設を極力避けました。鉄道建設審議会での検討を経て国会が決めたローカル線建設予算95億円のうち、半分は建設を中止しました。そして、そこから捻出した予算を新幹線の建設のために回したのです。しかしながら、国会で決定された予算を国鉄内部とはいえ勝手に別の用途に使ってしまうわけですから、当時の政治家や運輸省から見ればとんでもないことだと思われても仕方ありません。 とはいえ、十河総裁のこのような総合的な判断と実行力がなければ、新幹線を建設することは事実上不可能でした。同時に、予算だけでなく、技術者も在来線から新幹線に回す必要がありました。十河総裁にはこの時点ですでに、いずれ将来ローカル線の輸送需要が減少し、過疎地の主な交通手段は自動車にとって代わることになるだろうという読みがあったのです。それで、国鉄は基本的に新幹線建設に徹するという方針で進みましたが、これが我田引鉄の政治家の目の敵になる理由ともなってしまったのです。 3.建設された新線 十河総裁の時代に全部のローカル線の建設を中止したわけではありませんでした。工事を継続している線、幹線の補強になる線、また客観的に見て将来プラスになると判断できる路線は建設されました。その中には、湖西線、武蔵野線、根岸線などが含まれます。 アイキャッチ画像:By RailRider (talk) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7156917   コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか 「十河信二」 十河信二傅刊行会

コラム:2つの新幹線開通記念碑

昭和39(1964)年10月の東海道新幹線開通を記念して、東京駅には2つの記念碑があります。今回は、それらにまつわるエピソードを取り上げます。 国鉄の歴史(17):東海道新幹線開業 1.ブロンズ製の記念碑 国鉄の石田禮助総裁と磯崎叡副総裁の時代、東海道新幹線開業三周年を記念して、東京駅の新幹線中央乗換口正面の柱にブロンズ製の記念碑が設置されました。そこには、こう書かれています。 「この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」 この文言は、恐らく当時次期総裁と目されていた磯崎に総裁室周辺の人たちが気を使ってまとめたものであるように見えます。 2.十河総裁のレリーフ 十河総裁就任直後は東海道新幹線の計画に消極的だった磯崎叡も、その頃にはありがたみを身に染みて感じていたのでしょう、十河元総裁の功績をたたえるべく、昭和47(1972)年になって東京駅にレリーフを作ることにします。19番線ホーム端、十河信二が招待されなかったあの出発式が執り行われたその場所です。 許可をもらおうと十河元総裁のもとを訪れますが、十河は会おうとしません。まわりの説得で何とか短い会見が実現し、磯崎総裁は十河に鉄道開通百年の記念として新幹線ホームに十河の功績をたたえたレリーフを作りたいので許可をいただきたい、とお願いします。 くだらん。オレの顔にハトが糞をかけるだけだ。 それでも何とか粘って了解は得ることができました。その後レリーフは出来上がったものの、除幕式には磯崎総裁も十河元総裁も欠席という事態に。結局、東京駅駅長と数名の職員だけで執り行われ、テープカットはたまたまその場で新幹線に乗るところだった母子が行いました。 とは言っても、十河は気になっていたらしく、その後秘書の巧みな誘導のおかげでレリーフの前にやって来ます。すると、そこで一言。 似とらん。 とはいえ磯崎は、総裁引退後に十河についてこのように書いています。 四面楚歌のなかで最先端の技術を投入して、鉄道の将来に新生面を切り開いた十河総裁の卓見は、真に敬服に値するものだ。経営の責任者にとって、長期的展望と経営哲学にもとづいた的確な判断や勇気がいかに大切であるかを、これほど鮮やかに世に示した例はきわめてまれなことではないだろうか。 十河から総裁職を引き継いだ石田禮助も、出発式で「わしがテープを切るのはスジ違いだ」と述べ、その直後の記者会見でも「最大の功労者は十河信二である」と語りました。 3.島技師長とモニュメント 島秀雄は、東京駅で写真を撮るときは必ず19番線ホームの十河信二のレリーフの前でなければ承知しませんでした。 国鉄の歴史(19):粗にして野だが卑ではない   コラム:十河信二と在来線 画像:By 掬茶 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19443974 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco  

コラム:十河信二と新幹線テープカット

昭和39(1964)年10月1日の東海道新幹線出発式に、十河前総裁と島前技師長の姿はありませんでした。 国鉄の歴史(17):東海道新幹線開業 1.出発式当日 千駄ヶ谷のアパートに、口をへの字にぐっと力を込めて結び、出発式の様子を伝えるテレビの画面を食い入るように見つめる一人の老人の姿がありました。それは、十河信二前国鉄総裁その人でした。 元秘書 三坂健康は出発式の後、気になって十河の元を訪れました。三坂は、十河に出発式が無事に終わり、新幹線が予定通り開業したこと、そして十河が招待されなかった国鉄事務当局の不明を詫びました。 すると、十河は静かにこう語りました。 なに、無事に走ってくれさえすれば、それでいいんだよ。 元技師長 島秀雄も、東京 高輪の自宅から”それとなく”ひかり一番列車を見送ったといいます。 2.開業記念式典 午前6時の出発式の後、10時から「開業記念式典」が催されましたが、ここには天皇皇后両陛下がご臨席になりました。鉄道の開通式に天皇陛下がご臨席されたのは、新橋―横浜間の最初の鉄道開通時とその後の大阪―京都間の鉄道開通の時以来で、天皇皇后両陛下が揃ってご臨席されるのはこの時が初めてでした。 さすがにこの式典には十河信二と島秀雄も招かれ、十河を含む7名に銀杯が贈られることになりました。しかし、十河はその7名に島が入っていないことを知るとこう言います。 島君こそ最大の功労者だ。島君がもらえないのならばボクも辞退する。 それで、島秀雄にも銀杯が贈られることになりました。 3.ボクは新幹線のテープを切りたいんだ 出発式の日から遡ること約2年半前の昭和37(1962)年5月。三河島事故(国鉄の歴史(16):十河総裁辞任 参照)直後のある日、日本経済新聞の記者 大谷良雄と中日新聞の記者 高橋久雄はそれぞれ十河総裁を直撃インタビューしようと総裁公邸で待ち構えていました。夜11時過ぎに十河総裁は帰宅しましたが、事故対応で憔悴しきった十河にインタビューを受ける余裕などまったくなく、秘書は断りました。しかし、どうしてもという押し問答の末に、短時間のインタビューとなりました。 「... ボクは、この一か月、泣きどおしだよ。こんなにつらいことはぼくの人生で一度もない」 ひたすら涙をボロボロと流す十河総裁は、何を聞かれても 「遺族の方々にたいへん申し訳ない...」 そう言って涙を流しては口をへの字に結ぶ。二人の記者が今晩はさすがに無理だ、そうあきらめかけて席を立とうとしたその時、十河総裁はポツリとこう言います。 ... ボクはね、新幹線のテープを切りたいんだよ。開業のテープまでは、... 辞めたくない。 これは特ダネでした。しかし、これを記事にすれば間違いなく十河総裁再々任はなくなります。二人が公邸を後にしてしばらく歩いていると、後ろから大急ぎである人物が駆け寄ってきます。秘書の三坂でした。 「いまの話は書かないでください!お願いです。絶対に!... お願いします!お願いします!!... 」 必死の形相で二人の前に立ちはだかり何度も頭をたれて動きません。 「流しましょう...」 二人の記者はどちらからともなくそう言ってうなずきました。特ダネ記事を書かなかったことは、前にも後にもこの一度だけだったと、後に大谷は書いています。   コラム:2つの新幹線開通記念碑 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco 「新幹線をつくった男 島秀雄物語」 髙橋団吉著 小学館

まとめ:十河総裁と島技師長と国鉄ブルートレイン

十河信二国鉄総裁が尊敬されていた、恩師である後藤新平初代鉄道院総裁は、ある時このように訓示を述べられたそうです。 多くの人々の協力にまつところの大きい鉄道に従事するものは、まず愛というものに徹しなければならない。ただただ鉄道のためにつくすという心がけをもち、その愛を乗客、貨物、器具、機械におよぼすのである。要するに鉄道のために鉄道を愛し、万事に精神をこめて献身的に鉄道に従事してもらいたい。 この言葉は、生涯十河総裁の胸に刻まれていたと、「別冊 十河信二」でご本人が述懐されています。 1.十河信二総裁 もう一つ、「別冊 十河信二」 から、昭和56(1981)年10月22日の十河総裁の葬儀の際に友人代表として弔辞を述べられた木内信胤氏の言葉がとても印象的なので、ここで引用させてください。 先生の真のお志は、決して新幹線を作ることに在ったのではない。それを通じて国鉄を、その在るべき姿に在らしめることであったのです。人の一生をオーケストラに譬えれば、その演奏が始まって終わるまでが、この世の生活、人の一生でしょう。演奏が終われば音は聞こえなくなりますが、「曲そのもの」はそのまま存在しております。音の聞こえなくなった演奏と「曲そのもの」とは、どちらが真の実在か、考えてみるべきものでしょう。先生はいよいよこれから、その力を発揮されて、日本国の将来に、大きな影響をお与えになることとと思います。 2.島秀雄技師長 島秀雄技師長も、その晩年にこのように書き残されています。 人間というものは、ある決意のもとに事を進めていけば大体何事でもやれるものだという教訓を、この鉄道からわれわれは教えられたような気がする。 この「ある決意」とは、どんな困難に直面しても決してあきらめず、次の世代に『夢』を与えようとまさにその命を懸けて奮闘された十河総裁の熱い思いを念頭に置いたものであるに違いありません。 3.国鉄ブルートレイン 「新幹線の父」十河信二総裁なくしては、九州直通寝台特急「あさかぜ」の誕生はありませんでした。そして、島秀雄技師長なくしては、直接薫陶を受けられた星晃副技師長、そしてその盟友、卯之木十三車両設計事務所次長がその設計を取りまとめられた20系「ブルートレイン」客車が少なくともその形でこの世に存在することはなかったかもしれません。 プロダクトデザインは、その設計者に似るといわれます。この20系「ブルートレイン」客車を含め、私は昭和30年代に設計された国鉄車両を見て触れるたびに何か特別にわくわくするものをずっと感じてきました。それは理屈のない直感であり、これまでずっとロジカルな説明ができませんでした。しかし、このブログのためにその歴史背景を検証することを通じて、まだまだその知識は十分ではありませんが、その理由が少し分かった気がします。それは、きっと医師でもあった後藤新平総裁の純粋な愛の表れであるということ。そして、福岡市貝塚公園に保存されている20系先頭車 ナハネフ22 1007 にも、その時代の国鉄を作り上げた十河信二総裁と島秀雄技師長の情熱と生き様が反映されているように思えてなりません。 この穏やかな笑みをたたえたブルートレイン車両も、数え切れないほどの障害と苦難を乗り越えながら「若い者に『夢』を与えたい」と願い、最も環境負荷の少ない交通手段である鉄道の復権のため、決してあきらめずに命を懸けた十河総裁と島技師長のもとに結集した「ドリームチーム」のいわば愛の証しとして、これからもずっと子供たちを静かに優しく見守ってくれますように。 COQTEZ Shop @ Amazon   衝撃の事実!「新幹線の父」十河信二国鉄総裁は、「ブルートレインの父」でもあった!! コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(1/2) コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(2/2) シリーズ「国鉄の歴史」(全23話+エピローグ)はこちらから。 国鉄は収益性の高い公共企業体だった すべてお読みになった方は、是非こちらを。 コラム:愛情が注がれた国鉄103系電車 アイキャッチ画像:『週刊サンケイ』(昭和37年7月16日号、十河家蔵)より。撮影:房木芳雄 / 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco p.730-731 より 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「新幹線を作った男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」 髙橋団吉著 PHP文庫

コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(2/2)

昭和31(1956)年11月19日、この日戦後初めてとなる夜行特急列車「あさかぜ」号が走り始めました。 2-1.雷が落ちる 十河総裁も、この1番列車に乗り込みました。ところが、雷が落ちます。企画した広島鉄道管理局の瀧山はこう書いています。 総裁は、初列車に乗って西下された。大いに喜んでいただけただろうと、広島駅でお迎えすると、いきなり大きな雷を落とされた。客車便所の急造の腰掛が便器と形が合っていない、というのである。”品川検車区の所管でして”と言い訳しても、総裁には通じなかった。 同じ列車で一往復した石井昭正常務理事も、関係者を集めると「なんだ、このお粗末な車両は!これでは特急の名に値しない。すぐに「あさかぜ」専用の新しい車両を作るように!」と叱りつけます。 2-2.新しい寝台客車を作れ 島技師長から直接薫陶を受け、当時ヨーロッパ帰りの若き技術者であった後の副技師長、星 晃が苦労して設計した新しい客車(10系)は、この一言で一蹴されてしまいました。 しかし、もっと大きな構想を内に秘めていた星は、「これでもともと考えていた自分の構想を叶えられる!」と考えて逆境をバネに変えます。さっそく、盟友の卯之木十三(車両設計事務所次長)と全く新しい寝台客車の開発を始めました。 2-3.優美なデザイン この20系客車には、ハイライトが幾つかありますが、その一つにこの時初めてデザインそのものを列車の特徴としたことが挙げられます。特に、食堂車は製造を担当した日本車両と日立のそれぞれで独自のデザインとなり、とりわけ日立製は画期的なものとなって話題になりました。 興味深いことに、星副技師長は雑誌「鉄道ピクトリアル」の中で、そもそもデザイナーを立てることは十河総裁からの指示であったと書かれています。 さらに、青15号(藍色)の塗色については、星がヨーロッパの寝台車が青色であり、青色だといかにも静かに眠って行ける感じがするのでとても感じが良いと提案しました。帯の色(クリーム1号)やその位置なども星副技師長と国鉄設計チームが考え、島技師長はじめ磯崎営業局長(当時)も賛成しました。 こうして、その運転開始から約2年後の昭和33(1958)年10月1日、後にその優美なデザインでブームを引き起こした「ブルートレイン」と呼ばれる20系寝台客車が「あさかぜ」号として初登場したのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   まとめ:十河総裁と島技師長と国鉄ブルートレイン   画像: CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1323770 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco 鉄道ピクトリアル 2005年7月号 「星 晃氏に伺う 20系客車誕生とその時代」

コラム:「ブルートレインの父」十河信二総裁(1/2)

これまでのストーリー(国鉄の歴史)で「新幹線の父」として描かれている十河総裁と、ブルートレインとの間には一見何のつながりもないように思われるかもしれません。ところが、歴史を紐解くと意外なことに十河総裁はブルートレインの父でもあるのです。 1-1.内部の反対 十河総裁が就任されてから約1年後の昭和31(1956)年11月19日、東海道線(東京~大阪間)の全線電化が完成しました。 それをきっかけに、東京~博多間を直通する特急列車を走らせようということになりました。この夜行寝台特急を企画したのは、広島鉄道管理局の瀧山養(まもる)で、そこに後の鉄道研究所所長で当時門司鉄道管理局長だった篠原武司が応援に加わりました。ところが、大阪を深夜に素通りすることになるため、国鉄内部からの反対にあいました。 瀧山は後にこう書いています。 私が広鉄局長の時、東京~博多間の夜行特急を企画して本社に伺いをたてたが、営業担当の役員から、”大阪を深夜に通るようなことは非常識だ”と罵倒され、また職員局から”大阪駅を徹夜にすると、定員が三十七人増える”と反対された。 1-2.十河総裁の介入 しかし、瀧山と篠原は粘りました。では大阪駅に停車せず、貨物線を通過させてはどうか?と考えました。 この提案を聞いた十河総裁は、 おもしろい案だから、やってみろ。 とおっしゃいます。 1-3.特急「あさかぜ」の誕生 当初、この夜行特急の名称候補は「ふじ」でした。しかし、夜行なので富士は見えません。夢の中で富士山をイメージするより、翌朝のさわやかな風のほうが良いのでは?ということで石井常務理事が「あさかぜ」はどうかと提案します。 これに十河総裁も 早起きは大事じゃからな。さわやかでいいじゃないか。 と賛成したので決定となりました。 というわけで、十河総裁がいらっしゃらなければ、国鉄内部からの反対を押し切れずに「あさかぜ」号は誕生しなかったかもしれません。そう考えると、十河総裁は「ブルートレインの父」でもあるのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   コラム:「ブルートレインの父」十河総裁(2/2)   アイキャッチ画像: 写真撮影 - 星 晃 / 「新幹線を作った男 島秀雄物語」 高橋団吉著 小学館 p.235 より 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco 鉄道ピクトリアル 2005年7月号 「星 晃氏に伺う 20系客車誕生とその時代」

国鉄の歴史(17):東海道新幹線開業

昭和38(1963)年5月31日。国鉄で十河総裁辞任に伴う人事異動が発表されると、その日の夕方東京ステーションホテルで送別会が開催されました。 17-1.送別会 発起人は、全員ノンキャリアの現場職員。定員250人の会場には500人以上が詰めかけ、割れんばかりの拍手と声援が送られます。十河信二は感激の涙を拭った後、力強くこう語ります。 東海道新幹線は、世界一だ。国鉄は世界一の鉄道としてよみがえる。世界一の鉄道をつくるのは、君たち現場の諸君だ。みんな、これからも誇りをもって国鉄を支えてくれ!オレもいっしょに夢を追い続ける! 17-2.ひかり号 昭和39(1964)年7月7日、国鉄理事会で夢の超特急の愛称が決まります。一般公募で集まった55万通以上の名称で一位となったのは、約2万通あった「ひかり」。それに続いて、「はやぶさ」「いなづま」「はやて」「富士」「流星」「あかつき」「さくら」「日本」「こだま」という順位でした。議論の末に光と音のペアにしようということになり、「ひかり」「こだま」で決定しました。 これらの応募の中に少なからず「そごう号」という愛称が入っていたことから、一般の人々の十河人気がうかがえます。 17-3.出発式 昭和39(1964)年10月1日、ついに開業の日を迎えます。午前5時59分、東京駅9番線ホームに待機する超特急「ひかり」1号の前で発車ベルが鳴ります。出発式の式典で石田禮助総裁が記念のテープカットを行い、定刻6時ちょうどに新大阪に向けて記念すべき夢の超特急がゆっくりと動き出しました。 ところが、この場に十河信二と島秀雄の姿はありませんでした。何と、二人とも国鉄に招待されていなかったのです。 島秀雄も、実はこの時すでに国鉄を去っていました。十河前総裁の再々任がないことが決定した時に辞表を提出していました。石田総裁は島を何とか引き留めようとしましたが、島の辞意は揺るぎませんでした。そもそも島が国鉄にカムバックを果たしたのは十河前総裁を助けるためであり、十河前総裁が辞める時には自分も辞めると決めていました。 十河が予算不足問題で引責辞任するのであれば、技師長である私にこそ最大の責任がある。 同様の理由で、新幹線総局長だった大石重成も島と時を同じくして国鉄を去っていましたが、出発式には大石の姿もありませんでした。 COQTEZ Shop @ Amazon   国鉄の歴史(18):ヤング・ソルジャー   アイキャッチ画像: From “OLD MAN THUNDER : FATHER OF THE BULLET TRAIN” by Bill Hosokawa, © Sogo Way. 「新幹線を作った男 伝説のエンジニア・島秀雄物語」 髙橋団吉著 PHP文庫 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 髙橋団吉著 deco 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「不屈の春雷(下) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ  

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