国鉄

コラム:保存の目的と意義

久しぶりの投稿になります。 この度、貴重なご縁を頂きまして 2021年1月21日 にネコ・パブリッシング社より発売された鉄道趣味雑誌「レイルマガジン」447号/2021年3月号の 82-85 ページに、不定期掲載の新企画「RM的鉄道保存車めぐり」の初回記事として「ナハネフ22 1007 修復活動の経緯と今後の展望」と題して私が執筆した記事が掲載されました。紙媒体の定期刊行物に自分が書いた文章が掲載されることは初めてのことで、深く感謝しております。よろしければ是非お手に取ってお読みいただけますと幸いです。 Rail Magazine 447 / 2021年3月号 結論の『「思い」を形として継承する』の部分は、当初『保存の目的と意義』という見出しの副見出しとして記述したものでしたが、編集部との調整の結果基本的にその部分のみにまとめることになりました。蛇足となってしまうかもしれませんが、ご興味のある方に以下も長文となり大変恐縮ですが補足文章としてお読みいただけますと幸甚です。 何のために鉄道車両を保存するのか。私はこのとても基本的な問いかけに対する答えこそが、持続可能な保存のために最も重要な本質を明らかにするものであると考えている。そして、私にとってその答えは、少なくとも20系客車を含む昭和30年代に設計された国鉄車両については明確なものとなっている。 国鉄黄金時代を築いたヒーロー 日本国有鉄道は、昭和24(1949)年のその発足当初から下山事件、三鷹事件、松川事件の「国鉄三大ミステリー事件」や、桜木町事故および洞爺丸・紫雲丸事故の大事故が続くなど、国鉄への人々の不信感は高まるばかりであった。また国鉄内部においても職員の士気が落ち、ストライキが頻発。労使関係も険悪な状態へと落ち込んで行く中、昭和30(1955)年に第四代国鉄総裁として就任したのが十河信二である。 十河には夢があった。それは、先人たちが戦前ついに実現することのできなかった広軌弾丸列車計画をもう一度よみがえらせて超特急を作ること。長距離の移動手段としての役割が航空機や自動車に取って代わられようとしていたその時代に、就任当時すでに71歳であった十河は若者たちに『夢』を与えたいという強い願いに突き動かされたのである。 その背景には、十河がかつて社会人としての第一歩を踏み出した鉄道院でその初代総裁を務めた恩師であり医師でもあった後藤新平のこの訓示の言葉が生涯胸に刻まれていた。 「多くの人々の協力にまつところの大きい鉄道に従事するものは、まず愛というものに徹しなければならない。ただただ鉄道のためにつくすという心がけをもち、その愛を乗客、貨物、器具、機械におよぼすのである。要するに鉄道のために鉄道を愛し、万事に精神をこめて献身的に鉄道に従事してもらいたい」。 就任早々、十河はかつてD51蒸気機関車や80系電車など数々の車両設計を手掛け、桜木町事故の後に国鉄を去っていた島秀雄に、技師長として再び戻ってほしいと要請する。国鉄内部の責任のなすりつけ合い体質に嫌気がさしていた島は当初断っていたが、「君の親父(島安次郎)は広軌改築に苦労を捧げながら、ついに実現できず恨みをのんで死んでいった。君は親の遺業を完成する義務がある。親父の弔い合戦をしないか」と語り、副総裁格とするからと必死に説得する十河の情熱に動かされて受諾する。 こうして、後に東海道新幹線としてそれまでの世界の常識を破る高速鉄道が生まれることとなった。 プロダクトデザインはその設計者に似る プロダクトデザインはその設計者に似ると言われる。 島の設計思想は、直角水平主義であった。同時に、合理的なメカニズムは美しくなければならず、美しい機械は性能も素晴らしいという美学も持ち合わせていた。また、細かいところにこそ気を遣うこと、単なる思いつきで設計してはいけないとも開発チームに指示していた。 例えば、窓の形にもその思想が表れている。従来の車両の窓はきっちりとした長方形で四隅が直角であったが、これでは機械で洗車するようになるとコーナーに拭き残しができてしまう。よって、四隅の角を丸くしたほうが掃除しやすい。それで、20系客車の窓も含めて昭和30年代から登場する国鉄車両は窓の四隅が丸くなったのである。 島もそうであったが、当時の国鉄車両設計チームは、身近にいた大切な人々を戦火で失うという辛い経験をしていた。彼らには、生き残った者の使命として先の大戦でその尊い命が散った家族、友人、そして同僚の分も精一杯生きなければならないという強い思いがあった。 新幹線の設計チームには、戦時中に人間爆弾『桜花』を含む航空爆撃機を設計した三木忠直や、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のフラッター問題を解決した松平精など、多くの旧日本陸海軍にいた優秀な技術者たちが加わっていた。彼らは、それぞれそれまでに培った技術をもはや戦争で人を殺す兵器のためではなく、平和な世の中で活躍する鉄道車両のために惜しみなく提供した。そして彼らの努力は、新幹線の軽量車体や高速度でも安定して走行できる優れた台車の開発などに大きく貢献したのである。 「思い」を形として承継する 十河は、総裁公邸に帰ってからも毎晩夜遅くまで書類に目を通すのが習慣であったが、その約半分は一般利用者からの投書とそれに対する担当者の返事であった。それら一つ一つのやりとりを丹念に読み、問題があると感じれば必要な対応を取るよう担当者に直接指示をしていたという。私には、それが後藤新平初代鉄道院総裁から受け継いだ「愛」そのものに思えてならない。 また、十河は「新幹線の父」として知られるが、実は「ブルートレインの父」でもある。 昭和31(1956)年の東海道線の全線電化が完成したことをきっかけに、九州直通特急を走らせようという企画が持ち上がった。ところが大阪を深夜に素通りすることになるため、企画した担当者たちは役員を含む国鉄内部からの反対に遭った。そこで彼らは、列車を大阪駅に停車せずに貨物線を通過させることを考えた。この提案を聞いた十河が「おもしろい案だから、やってみろ」と後押ししたことにより、東京-博多間を結ぶ寝台特急「あさかぜ」が実現した。そして十河の指示によりデザイナーを立て、デザインそのものを列車の特徴としたその最初の例として昭和33(1958)年に登場したのが20系客車である。 私は、自分の記憶が始まるわずか3歳の時点でこれら昭和30年代に設計された国鉄車両の走っている姿を見るだけで感動を覚えていた。もちろん、その当時もその後こうした国鉄黄金期を築いたすばらしい先人たちがいらした歴史があることを知るまでもずっと、である。そして、こうした事実を知った時に心の中で感じた温もりは、これらの鉄道車両から既に感じていたものと何ら相違ないものであった。 こうしたプロダクトに込められた無形の「思い」から伝わる感動を承継するには、やはり有形なものを通してでないと難しいのではないだろうか。 ここに承継のテーマがあり、私はそれがまさにナハネフ22 1007を含む国鉄車両を保存することの目的と意義であると考えている。

コラム:剣を打ちかえて鋤とする / 三木忠直

昭和30年代、十河総裁と島技師長のもとに集結した国鉄の新幹線開発チームには、多くの旧日本陸海軍にいた優秀な技術者たちが加わっていました。今回のコラムでは、その車体設計に大きく貢献したある人物を取り上げます。 三木忠直 現在の東京大学である東京帝国大学で船舶工学を学んだ三木忠直(みき ただなお)は、1938(昭和13)年に卒業後、海軍技術士官となりました。 1940(昭和15)年、三木はゼロ戦並みの最高速度に加えて4,000km の航続距離能力を持つうえに、1トンの爆弾を搭載可能な当時としては非常に優れた性能を持つ急降下爆撃機「銀河」の設計を任されました。 人間爆弾『桜花』 1941(昭和16)年12月の太平洋戦争開戦後に戦況が悪化すると、いわゆる「特攻作戦」が現実のものとなってゆきます。 1944(昭和19)年夏、三木は「人間爆弾」の絵を見せられます。それは、小型航空機の先頭に大きな爆弾が装着され、機体ごと敵艦に突っ込むという新兵器でした。一度出撃すれば、操縦する飛行士はもちろん生きて帰ることができません。この計画に、三木はこう反発しました。 兵士は決死の覚悟で戦う。だがこれは兵士に『必死』を強いるもの。こんなものは兵器といえない。 しかしながらこの反論も、「我々が乗っていく」という前線兵士の声には無力でした。 三木が担当したこの特攻兵器は『桜花』と名付けられ、終戦までに755機が生産され、55名が特攻して戦死したとされています。 『重荷を負うもの、われに来たれ』 終戦後、三木は自分が設計した航空機で戦火に散った多数の若い命に対して強い自責の念を感じ、思い悩む日々が続きました。 凡て(すべて)労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。 ― マタイによる福音書 11章28節 三木の心は聖書のこの言葉に救われ、クリスチャンとしての洗礼を受けました。そして、もはや二度と兵器を作るまいと心に誓ったのです。 設計屋ですから、やはり何か動くものを作りたいんです。しかし飛行機や船は、いざというとき兵器に転用されやすい。鉄道なら、そのまま直接兵器になりえないだろうと考えて、高速鉄道の研究をやろうと決めました。  国鉄の鉄道技術研究所の技術者となった三木は、「美しいものは速い」というポリシーを持ち、小田急ロマンスカーSE車および新幹線0系車両の車体設計に大きく貢献しました。航空機の設計経験を活かし、低重心で流線形をした軽量車体を作ることで鉄道の高速性は大幅に向上すると確信していたのです。 当時の世論を新幹線建設の流れへと変えた歴史的な鉄道技術研究所創立50周年記念講演会では、「車両について」の講演を担当しました。(国鉄の歴史(9):東京-大阪三時間の可能性 参照) "...they shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning hooks: Nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more." ~...

コラム:国鉄のデザイナー / 黒岩保美

国鉄車両に見られた、日本の伝統と情景にマッチした美しい色合いや数々のトレインマーク、重厚感があり視認性に優れた各種表記文字。これらすべては、日本画を熟知した、ある一人のデザイナーの手によるものであったことをご存知ですか? 黒岩保美 黒岩保美(くろいわ やすよし)は、1949(昭和24)年に国鉄工作局客貨車設計課に配属され、1977(昭和52)年に退職するまで 昭和30~40年代の国鉄車両内外装のデザインを数多く手掛けました。 まさに「国鉄のデザイナー」と呼ぶにふさわしい方だと思います。 生い立ち 幼少期から汽車が好きだった黒岩は、1921(大正10)年11月14日、現在の東京都中央区日本橋富沢町に生まれました。 小学校に入ってからずっと病弱であったために、中学卒業後の進学ができず、鉄道会社への就職は困難とあきらめざるを得ませんでした。その頃、黒岩は当時東京駅北側ガード下にあった鉄道博物館に毎週通い、機関車のスケッチを描いていました。黒岩家は呉服を扱う悉皆業(しっかいぎょう/デザインから洗い張り、染み抜きまでの着物のすべての工程を受け持つ業務)を営んでいたため、病弱な保美の将来を心配した父は、汽車の次に好きだった絵を描くことを仕事とできるようにさせたいと考えました。そこで、呉服の模様くらいは描けるようにと、当時美大の教授だった矢澤弦月(やざわげんげつ)から日本画の手ほどきを受けることになったのです。 1940(昭和15)年の第二回日本画院展に「機関車」を出品し、入選。 その後、黒岩は戦争の激化により海軍横須賀航空隊に配属され、航空兵の教育資料製作に携わりました。 終戦後、交通博物館からの依頼により描いた進駐軍専用特殊改造客車の内部見取図が、後の国鉄副技師長 星 晃(ほしあきら)の目に留まります。星は、将来国鉄の設計にこういう仕事をする人が要るからと上司に進言し、黒岩には嘱託にならないかと勧めます。黒岩にとって、それは願ってもない申し入れでした。 こうして、黒岩は1947(昭和22)年より嘱託職員、そして 1949(昭和24)年には国鉄正式入社となりました。 作品 黒岩が手掛けた主な作品の一部を以下に挙げます。 湘南電車のカラーリング(コラム:東海道線の色はみかんと葉っぱではない? 参照) 寝台特急「あさかぜ」、ビジネス特急「こだま」のカラーデザイン検討 東海道新幹線車両などの完成予想図 「ゆうづる」(下図参照)を含む特急列車ヘッドマーク グリーン車マーク(下図参照)     COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:電車群像/気動車群像/客車群像 個人蔵 ©Kuroiwa Yasuyoshi、旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 第47回企画展 没後20年 工業デザイナー 黒岩保美 パンフレットより 旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 第47回企画展 没後20年 工業デザイナー 黒岩保美 パンフレット 「没後20年 工業デザイナー 黒岩保美」 公益財団法人東日本鉄道文化財団  2018年 「とれいん」1992年10月...

コラム:ビジネス特急「こだま」の人気

昭和33 (1958) 年11月の運転開始から、たちまち大人気となった国鉄151系電車によるビジネス特急「こだま」。この列車の人気と、実際の旅客輸送需要への変化を考察します。 夢と憧れ 車内で検札をしていたとき、あるお客様から切符と一緒にサイン帳を差し出されたことがありました。当時は一度<こだま>に乗ってみたいという方が本当に多かったですね。 ―<こだま>に乗務していた東京車掌区所属の内田義男氏 特急「こだま」は、当時の少年たちにとっても夢と憧れの対象でした。「こだま」に乗ることができた少年は、学校のクラスメートに興奮しながら体験談を話していました。 航空機との比較 昭和39 (1964) 年の時点ですでに26の空港が日本国内の旅客輸送用に機能しており、その中で東京(羽田)空港が昭和27 (1952) 年、大阪(伊丹)空港は昭和33 (1958) 年にそれぞれ米軍から返還されていました。日本航空は昭和26 (1951) 年に設立されており、ビジネス特急「こだま」が運転を開始した時点ですでに戦後の国内航空輸送網は確立していました。 とはいえ、当時の国内線はダグラス DC-4 などのプロペラ機が主力で、機内の与圧(高度が高くなるにつれて気圧が低くなるため、内部の気圧を上げること)はされておらず、3000m 程度の高度を飛行し気流の乱れに影響されることが多いうえにエンジンの振動や騒音も大きかったため、必ずしも今と比べて快適なフライトではなかったと言えます。とはいえ、それでも時速は DC-3 で345km/h、DC-4 では350km/h と現在の東海道新幹線列車最高時速よりも速いことは大きなメリットでした。 輸送量の増加 ここで、こちらの国鉄技師長室資料の統計データをご覧ください。 これを見ると、「こだま」の人気は単に並行して走っていた客車特急列車の乗客が移動したのではなく、鉄道旅客輸送の新たな需要を生み出したことが分かります。こうした過去の事実は、これからの鉄道ビジネスの在り方にも洞察を与えるものであると私は考えます。 以下、「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.83, 84 より引用させていただきます。 技師長室では、「簡単に結論付けることはできないが、輸送量の増加は自然増だけでなく、ビジネス特急「こだま」による誘発は明らかで(ある)... とし、 ① 「こだま」の爆発的人気が航空機へ移行した旅客を取り戻したであろうこと ② 汽車の旅の考え方に新しい快適な旅行気分を盛込み、旅行頻度の増加をもたらしたであろうこと と分析した。 COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:ビジネス特急「こだま」運転開始日の東京駅/写真:小川峯生 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.81  「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著...

コラム:ビジネス特急「こだま」の経営

昭和33 (1958) 年に国鉄が約9億5千万円の資本を投下して開発した、151系ビジネス特急電車「こだま」。そこで培われた技術は後の東海道新幹線0系電車の誕生への重要な基礎となりましたが、この列車は国鉄の経営面においても大成功を収めました。 設備投資計画 ビジネス特急「こだま」は、その計画段階で東京-大阪間を従来より1時間短い6時間30分で結ぶことを目標としていました。しかし、そのためには線路や関連設備に改良工事を施す必要があり、費用は約9億円と見積もられていました。 しかしながら、この金額は予算として確保することが難しいため、運転条件を幾つか検討することになりました。その結果、投資額約4億円で所要時間がそれまでより40分ほど短縮する6時間50分とする案を採用することになりました。 運転ダイヤ 運転ダイヤは、毎日運転の一日2往復(うち1往復は神戸発着)とするためにそれぞれ8両からなる2編成+予備編成1編成の合計3編成が製造されました。また東京(もしくは大阪)まで日帰り出張を可能にするため、往路はそれぞれ早朝に出発して復路は夕方に出発する設定としましたが、これには少なからず批判がありました。 というのは、長距離列車は朝ゆっくり出発して夜それほど遅くなる前に目的地に到着するものという考え方が当時一般的であったからです。それまでのダイヤと異なる早朝深夜の発着では利用率が下がるのではないかという懸念もありました。 しかしながら、 ビジネスのために時間を有効に使わなければならない乗客には、その方が喜ばれる。現に航空機(東京―大阪間)の早朝深夜発着便は、高い利用率を示しているではないか。 という島技師長の説得により実現することになりました。   収支 昭和33 (1958) 年11月1日に営業運転を開始したビジネス特急の乗車率は、想定されていた乗車率85%をはるかに上回る95%となりました。投下資本約9億5千万円に対して初年度の収益は当初の予想を1割以上も多い約9億9千万円となり、たった1年で投資全額を回収する快挙を成し遂げたのです。   COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.24  「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄特急電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング

コラム:国鉄から始まった「電子レンジ」

昭和30年代の国鉄は、当時の先端技術を新型車両に積極的に取り入れて時代をリードしていました。今回はその中の一つ「電子レンジ」を取り上げます。 兵器は調理器具へ 第二次世界大戦中、兵器としてレーダー技術が実用化されました。この技術によるマイクロ波を調理器具に応用できることを発見したのは、米国レイセオン社の技師パーシー・スペンサーでした。その原理は、水分子を含む物質が電磁波によって分子レベルで振動および回転することにより加熱されるというものです。 米国ではレイセオン社が特許を取得し1947年に製品化しましたが、日本における調理器第一号を開発したのは、日新電機の井上昭雄(てるお)でした。 実用化 井上氏は、東芝からマイクロ波を使った調理器具の実用化を依頼されました。 この高周波は覗いたりすると角膜をやられてしまいますので全面にスリットを設けたり、二重三重の安全装置の設計は入念に行いました。東芝からは国鉄の食堂車と自衛隊を販売ターゲットに考えていると聞きました。製品化したときの価格を考えて、飲食店や一般家庭ではなく官公庁にねらいを絞ったのでしょうね。 - 井上氏談、福原俊一著「国鉄急行電車物語」より かくして、試作品は昭和35 (1960) 年に完成し、その後東芝が製品化しました。 『電子レンジ』 国鉄への営業が始まる頃には、その2年前からビジネス特急「こだま」が首都圏と京阪神を結んでおり(東海道新幹線開業前)、ビュッフェと呼ばれた食堂車には当時としては非常に先進的な各種電気器具-電気冷蔵庫、電熱式酒かん器、ジュースクーラー、電気レンジなどが揃っていました。 しかしながら、電気レンジでメニューのビフテキ(ビーフステーキ)を調理するにはそれまで使っていた石炭レンジに比べて火力が足りず、コックからはクレームが出ていました。 マイクロ波を使った新しい調理器は昭和36 (1961) 年12月から153系急行電車のビュッフェに採用され、温かいカツ丼や鰻丼を提供することができるようになりました。 東芝が開発した新製品に名前をつけようと、関係者でいろいろ考えました。電気のレンジなのですが、電気レンジは当時既に20系客車やこだま形の食堂車などで使われていましたから、高周波の電子で加熱するので『電子レンジ』とネーミングしたのです。後にこの名称が一般化しますが、最初のネーミングはたぶん我々だと思いますよ。 とは、当時国鉄の電車主任技師だった星 晃氏のお話です。     COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:153系急行電車、155系修学旅行電車。「国鉄急行電車物語」 福原俊一著 JTBパブリッシング p.10  https://ja.wikipedia.org/wiki/電子レンジ 「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「国鉄急行電車物語」福原俊一著 JTBパブリッシング

コラム:十河信二とアメリカ(4)

マシュー博士邸滞在の後に十河がお世話になったのは、郊外の小さな鉄道会社の実態を調査するために向かったロチェスターのスミス医師ご夫妻のお宅でした。ここでも、十河は家族の一員として手厚くもてなされました。 そして、さらにその後当時米国最大の製鉄会社であったU.S.スチールの重役オースティン氏のニュージャージーにあった家で2か月居候をすることになりました。 4-1.民主主義のコツ 十河は、ある日ダルトン・プラン(自学自習を重んじる教育法)を実践している小学校を見学しました。そこで子供たちは自分の意思で自由に絵を描いたり、本を読んだり、玩具をいじって遊んだりしていました。そばにいるのに何もしていない先生を不思議に思った十河は、先生はなにをするのか尋ねます。その返事を聞いて、民主主義のコツはここにあるのだと納得しました。 この学校の先生が一番むずかしい。こうやって自由にさせているうちに子供の性格やら才能やらを発見し、それを育成してゆくのだから容易じゃない。この方式の欠陥はよい先生を得ることが困難だということなのです。 4-2.日本は何を求めているのか 十河が行った別の小学校では、歴史の授業を見せてもらいました。そこでは、先生と生徒の間でこんなやりとりがされました。 「今フランスからお客が来ているが誰か」 「ジョフレーであります。ジョフレーはアメリカから兵隊と武器弾薬を供給してほしいといっています」 「よろしい、イギリスからは誰が来ているか。その使命は」 「バルフォアであります。兵隊とお金と武器弾薬とがほしいそうです」 「日本から誰が来ているか」 「石井菊次郎大使です」 「なにしに来たか」 「石井大使はきのうサンフランシスコに上陸したばかりでまだわかりません」 そこで、一人の生徒がこう言います。 先生そこに日本のお客がいますが、日本がなにを求めているのか聞いて下さい。 十河は石井大使の訪米の目的を把握していたわけではなかったので躊躇していましたが、促されてこのように話します。 日本は兵隊もいらない、武器もいらない、お金もいらない、日本のほしいものはアメリカの友情である。 その場は皆の笑いに包まれ、和やかな空気が流れました。 4-3.留学から得たもの 十河はこうした1年間のアメリカ留学を振り返って、こう語りました。 人情に国境はないといっても、よくもこうやさしく、いたわりの心持をもって導いてくれるものだと幾度感激したかわからぬほどであります。教養の高い人達には人種的偏見というものがありません。すべての人に平等であり、常に愛情に生きているということをしみじみと体験しました。 <完> COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:日本から贈られたワシントンD.C.の桜、By 'Matthew G. Bisanz, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9891443 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「有法子 十河信二自伝」 十河信二著 ウェッジ文庫

コラム:十河信二とアメリカ(3)

大正6(1917)年の十河のアメリカ留学で滞在先として紹介されたのは、ハドソン川に面するヘイスティングス (Hastings-on-Hudson) という小さな町に住むマシュー家でした。 3-1.お国のため 当時50歳だったウィリアム・マシューは、ニューヨーク自然博物館で古生物学部長を務める古生物学者でした。 ある日曜日の朝、十河はマシュー博士に「教会へご一緒したい」と伝えます。すると博士は、 教会へ行ってつまらない牧師の説教を聞くよりは畑を耕して豆でも作ったほうがはるかにお国のためになる といって聞きません。 そんな彼は、その日の午後になると軍人の格好をして銃を担いで出かける準備をします。十河がどこに行くのかと尋ねるとこう答えます。 この街には二千人の職工が働いている工場が二つある。しかもその治安はただ一人の警官によって守られているだけだ。すでに二十歳から四十歳までの男という男はことごとく志願兵になって出征した。街の治安は当然市民が自ら守らなければならない。そこで四十一歳から六十歳までの男が申し合わせて、自らの金で制服、武器を購入し、正規の軍人に依頼して毎日曜の午後訓練を受けることにしている。そうしておれば万一の場合にも役立ち、ことを未然に防止できようというものだ 3-2.砂糖は使わない 子供が3人いるマシュー家の朝は、テーブルを囲んで皆でオートミールやコーヒーをいただきますが、砂糖がつきません。不思議に思った十河が尋ねると、マシュー夫人は 戦場で働く兵隊は糖分が余計に必要。戦場に送る必要があるので、家庭では極力節約するようにしています と答えます。驚いた十河がそれは法律で決められたことなのですか、と聞くと夫人はこう話します。 法律でも規則でもありません。ただ新聞に内務長官の話が出ていたので、市民がその趣旨に留意してそれぞれの家庭で節約しているだけです 十河にとってマシュー家で見聞きしたことは何もかも驚きの連続で、愛国心は日本人独特のものだと思い込んでいた自分が恥ずかしくなったと後に書いています。深い感銘を受けた十河のアメリカ人に対する見方は一変しました。 3-3.忘れ物 その後、オンタリオ湖に近いロチェスターに滞在していた十河のもとに、マシュー夫人から「部屋を掃除していたら忘れ物があったのでお送りしました」と書かれた一通の手紙と共に小包が届きました。そこには、ごみ箱に捨てたはずの穴の開いた靴下がきちんと洗濯され、修繕されて入っていたのです。 十河は深く感謝し、夫人に手紙でこう書き送りました。 有難くもったいなくてこの靴下ははけません。東京に持ち帰りいつまでも記念にいたします COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:マシュー夫人、「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ p.162 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「有法子 十河信二自伝」 十河信二著 ウェッジ文庫

Recent posts

Popular categories