国鉄車両に見られた、日本の伝統と情景にマッチした美しい色合いや数々のトレインマーク、重厚感があり視認性に優れた各種表記文字。これらすべては、日本画を熟知した、ある一人のデザイナーの手によるものであったことをご存知ですか?
歴史
コラム:十河信二とアメリカ(4)
マシュー博士邸滞在の後に十河がお世話になったのは、郊外の小さな鉄道会社の実態を調査するために向かったロチェスターのスミス医師ご夫妻のお宅でした。ここでも、十河は家族の一員として手厚くもてなされました。
コラム:十河信二とアメリカ(3)
大正6(1917)年の十河のアメリカ留学で滞在先として紹介されたのは、ハドソン川に面するヘイスティングス (Hastings-on-Hudson) という小さな町に住むマシュー家でした。
コラム:十河信二とアメリカ(2)
十河信二は自身の米国留学について、出発前に友人たちへ本当の目的をこのように話しました。 自分はなにかしら将来米国と戦争にでもまるようなことがありはしないかという予感がしてならない。その時にどうしたらよいかということを研究 […]
コラム:十河信二とアメリカ(1)
後に第4代国鉄総裁となる十河信二は、鉄道院経理局勤務時代の大正6(1917)年、鉄道事業の研究を主な目的として米国に1年留学することになりました。
コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか
#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。 昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立 […]
PEの歴史(1) : Pacific Electric の誕生前夜
20世紀初頭、「世界最大の電車ネットワーク」と呼ばれた Pacific Electric(パシフィック・エレクトリック)。米国カリフォルニア州で、総延長約800キロにも及ぶ巨大な鉄道網を有する会社はどのようにして誕生した […]
コラム:十河信二と在来線
「新幹線の父」である十河信二は、国鉄総裁時代に当然のことながら東海道新幹線の建設を最優先にしました。では、十河にとって在来線とはどのような位置付けだったのでしょうか。
コラム:2つの新幹線開通記念碑
昭和39(1964)年10月の東海道新幹線開通を記念して、東京駅には2つの記念碑があります。今回は、それらにまつわるエピソードを取り上げます。
国鉄の歴史(終):老兵の消えて跡なき夏野かな
昭和38(1963)年5月17日。国鉄総裁として最後の記者会見で十河は一句詠みました。 老兵の消えてあとなき夏野かな
国鉄の歴史(22):分割民営化への道
昭和40年代、ストライキが頻発して遅れや運休が頻発した乗客の怒りが頂点に達し、ついに暴動が起きてしまいます。
国鉄の歴史(21):労使対立激化
石田総裁は、その二期目途中の昭和44(1969)年5月27日、高齢により勇退。総裁のバトンは鉄道省出身の副総裁、磯崎叡に渡ります。
国鉄の歴史(20):巨額債務のはじまり
十河総裁なき後の国鉄は、昭和39(1964)年度決算から赤字へと転落し、その後二度と黒字になることはありませんでした。この年、収入の6,002億円に対して支出が300億円上回りました。そして、翌年以降さらに毎年雪だるまの […]
国鉄の歴史(19):粗にして野だが卑ではない
「粗にして野だが卑ではない」 石田総裁が就任時に国会で語った言葉です。これは、自分は粗野な性格ではあるものの卑しい性格はしていない、ということを意味していました。
国鉄の歴史(18):ヤング・ソルジャー
昭和55(1980)年に真木洋二が書いた、十河の後を継いだ国鉄総裁が主人公の「ヤング・ソルジャー」(日本経済新聞社刊)という小説があります。登場人物は仮名ではありますが、恐らく史実にかなり近いものと思われます。
国鉄の歴史(17):東海道新幹線開業
昭和38(1963)年5月31日。国鉄で十河総裁辞任に伴う人事異動が発表されると、その日の夕方東京ステーションホテルで送別会が開催されました。
国鉄の歴史(16):十河総裁辞任
十河総裁が奇跡の再任を決め、幾多の障害を乗り越えながら夢の超特急建設が進んでいた国鉄でしたが、大事件が起こります。
国鉄の歴史(15):鴨宮実験線
昭和37(1962)年4月20日、後に東海道新幹線の一部となる神奈川県の鴨宮-綾瀬間約32キロの区間が完成し、数々のテストが行われる場所となりました。「鴨宮実験線」の誕生です。6月26日には、十河総裁を招き初の公開試運転 […]
国鉄の歴史(14):東海道新幹線建設
世界銀行からの融資調達からさかのぼること約2年。昭和34(1959)年4月20日、静岡県の新丹那トンネル(熱海-函南間)の熱海口で、関係者80名ほどが集まり新幹線起工式が行われました。
国鉄の歴史(13):世界銀行
結局、十河総裁の「かならず国民のためになる」という強い信念のもと、総額1,972億円の予算により国会をだます格好で通過した新幹線建設予算ですが、絶対に足りなくなることは明らかでした。そこで、ある秘策が浮上します。