歴史

コラム:国鉄のデザイナー / 黒岩保美

国鉄車両に見られた、日本の伝統と情景にマッチした美しい色合いや数々のトレインマーク、重厚感があり視認性に優れた各種表記文字。これらすべては、日本画を熟知した、ある一人のデザイナーの手によるものであったことをご存知ですか? 黒岩保美 黒岩保美(くろいわ やすよし)は、1949(昭和24)年に国鉄工作局客貨車設計課に配属され、1977(昭和52)年に退職するまで 昭和30~40年代の国鉄車両内外装のデザインを数多く手掛けました。 まさに「国鉄のデザイナー」と呼ぶにふさわしい方だと思います。 生い立ち 幼少期から汽車が好きだった黒岩は、1921(大正10)年11月14日、現在の東京都中央区日本橋富沢町に生まれました。 小学校に入ってからずっと病弱であったために、中学卒業後の進学ができず、鉄道会社への就職は困難とあきらめざるを得ませんでした。その頃、黒岩は当時東京駅北側ガード下にあった鉄道博物館に毎週通い、機関車のスケッチを描いていました。黒岩家は呉服を扱う悉皆業(しっかいぎょう/デザインから洗い張り、染み抜きまでの着物のすべての工程を受け持つ業務)を営んでいたため、病弱な保美の将来を心配した父は、汽車の次に好きだった絵を描くことを仕事とできるようにさせたいと考えました。そこで、呉服の模様くらいは描けるようにと、当時美大の教授だった矢澤弦月(やざわげんげつ)から日本画の手ほどきを受けることになったのです。 1940(昭和15)年の第二回日本画院展に「機関車」を出品し、入選。 その後、黒岩は戦争の激化により海軍横須賀航空隊に配属され、航空兵の教育資料製作に携わりました。 終戦後、交通博物館からの依頼により描いた進駐軍専用特殊改造客車の内部見取図が、後の国鉄副技師長 星 晃(ほしあきら)の目に留まります。星は、将来国鉄の設計にこういう仕事をする人が要るからと上司に進言し、黒岩には嘱託にならないかと勧めます。黒岩にとって、それは願ってもない申し入れでした。 こうして、黒岩は1947(昭和22)年より嘱託職員、そして 1949(昭和24)年には国鉄正式入社となりました。 作品 黒岩が手掛けた主な作品の一部を以下に挙げます。 湘南電車のカラーリング(コラム:東海道線の色はみかんと葉っぱではない? 参照) 寝台特急「あさかぜ」、ビジネス特急「こだま」のカラーデザイン検討 東海道新幹線車両などの完成予想図 「ゆうづる」(下図参照)を含む特急列車ヘッドマーク グリーン車マーク(下図参照)     COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:電車群像/気動車群像/客車群像 個人蔵 ©Kuroiwa Yasuyoshi、旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 第47回企画展 没後20年 工業デザイナー 黒岩保美 パンフレットより 旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 第47回企画展 没後20年 工業デザイナー 黒岩保美 パンフレット 「没後20年 工業デザイナー 黒岩保美」 公益財団法人東日本鉄道文化財団  2018年 「とれいん」1992年10月...

コラム:十河信二とアメリカ(4)

マシュー博士邸滞在の後に十河がお世話になったのは、郊外の小さな鉄道会社の実態を調査するために向かったロチェスターのスミス医師ご夫妻のお宅でした。ここでも、十河は家族の一員として手厚くもてなされました。 そして、さらにその後当時米国最大の製鉄会社であったU.S.スチールの重役オースティン氏のニュージャージーにあった家で2か月居候をすることになりました。 4-1.民主主義のコツ 十河は、ある日ダルトン・プラン(自学自習を重んじる教育法)を実践している小学校を見学しました。そこで子供たちは自分の意思で自由に絵を描いたり、本を読んだり、玩具をいじって遊んだりしていました。そばにいるのに何もしていない先生を不思議に思った十河は、先生はなにをするのか尋ねます。その返事を聞いて、民主主義のコツはここにあるのだと納得しました。 この学校の先生が一番むずかしい。こうやって自由にさせているうちに子供の性格やら才能やらを発見し、それを育成してゆくのだから容易じゃない。この方式の欠陥はよい先生を得ることが困難だということなのです。 4-2.日本は何を求めているのか 十河が行った別の小学校では、歴史の授業を見せてもらいました。そこでは、先生と生徒の間でこんなやりとりがされました。 「今フランスからお客が来ているが誰か」 「ジョフレーであります。ジョフレーはアメリカから兵隊と武器弾薬を供給してほしいといっています」 「よろしい、イギリスからは誰が来ているか。その使命は」 「バルフォアであります。兵隊とお金と武器弾薬とがほしいそうです」 「日本から誰が来ているか」 「石井菊次郎大使です」 「なにしに来たか」 「石井大使はきのうサンフランシスコに上陸したばかりでまだわかりません」 そこで、一人の生徒がこう言います。 先生そこに日本のお客がいますが、日本がなにを求めているのか聞いて下さい。 十河は石井大使の訪米の目的を把握していたわけではなかったので躊躇していましたが、促されてこのように話します。 日本は兵隊もいらない、武器もいらない、お金もいらない、日本のほしいものはアメリカの友情である。 その場は皆の笑いに包まれ、和やかな空気が流れました。 4-3.留学から得たもの 十河はこうした1年間のアメリカ留学を振り返って、こう語りました。 人情に国境はないといっても、よくもこうやさしく、いたわりの心持をもって導いてくれるものだと幾度感激したかわからぬほどであります。教養の高い人達には人種的偏見というものがありません。すべての人に平等であり、常に愛情に生きているということをしみじみと体験しました。 <完> COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:日本から贈られたワシントンD.C.の桜、By 'Matthew G. Bisanz, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9891443 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「有法子 十河信二自伝」 十河信二著 ウェッジ文庫

コラム:十河信二とアメリカ(3)

大正6(1917)年の十河のアメリカ留学で滞在先として紹介されたのは、ハドソン川に面するヘイスティングス (Hastings-on-Hudson) という小さな町に住むマシュー家でした。 3-1.お国のため 当時50歳だったウィリアム・マシューは、ニューヨーク自然博物館で古生物学部長を務める古生物学者でした。 ある日曜日の朝、十河はマシュー博士に「教会へご一緒したい」と伝えます。すると博士は、 教会へ行ってつまらない牧師の説教を聞くよりは畑を耕して豆でも作ったほうがはるかにお国のためになる といって聞きません。 そんな彼は、その日の午後になると軍人の格好をして銃を担いで出かける準備をします。十河がどこに行くのかと尋ねるとこう答えます。 この街には二千人の職工が働いている工場が二つある。しかもその治安はただ一人の警官によって守られているだけだ。すでに二十歳から四十歳までの男という男はことごとく志願兵になって出征した。街の治安は当然市民が自ら守らなければならない。そこで四十一歳から六十歳までの男が申し合わせて、自らの金で制服、武器を購入し、正規の軍人に依頼して毎日曜の午後訓練を受けることにしている。そうしておれば万一の場合にも役立ち、ことを未然に防止できようというものだ 3-2.砂糖は使わない 子供が3人いるマシュー家の朝は、テーブルを囲んで皆でオートミールやコーヒーをいただきますが、砂糖がつきません。不思議に思った十河が尋ねると、マシュー夫人は 戦場で働く兵隊は糖分が余計に必要。戦場に送る必要があるので、家庭では極力節約するようにしています と答えます。驚いた十河がそれは法律で決められたことなのですか、と聞くと夫人はこう話します。 法律でも規則でもありません。ただ新聞に内務長官の話が出ていたので、市民がその趣旨に留意してそれぞれの家庭で節約しているだけです 十河にとってマシュー家で見聞きしたことは何もかも驚きの連続で、愛国心は日本人独特のものだと思い込んでいた自分が恥ずかしくなったと後に書いています。深い感銘を受けた十河のアメリカ人に対する見方は一変しました。 3-3.忘れ物 その後、オンタリオ湖に近いロチェスターに滞在していた十河のもとに、マシュー夫人から「部屋を掃除していたら忘れ物があったのでお送りしました」と書かれた一通の手紙と共に小包が届きました。そこには、ごみ箱に捨てたはずの穴の開いた靴下がきちんと洗濯され、修繕されて入っていたのです。 十河は深く感謝し、夫人に手紙でこう書き送りました。 有難くもったいなくてこの靴下ははけません。東京に持ち帰りいつまでも記念にいたします COQTEZ Shop @ Amazon   アイキャッチ画像:マシュー夫人、「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ p.162 「十河信二」 十河信二傅刊行会 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「有法子 十河信二自伝」 十河信二著 ウェッジ文庫

コラム:十河信二とアメリカ(2)

十河信二は自身の米国留学について、出発前に友人たちへ本当の目的をこのように話しました。 自分はなにかしら将来米国と戦争にでもまるようなことがありはしないかという予感がしてならない。その時にどうしたらよいかということを研究するのが、真目的である 留学前の十河は、アメリカ国民の多くはお金と物にしか興味がなくて愛国心などはないのではないかと想像していました。また、女性たちは贅沢で威張ってばかりいるのではないかとも思っていました。とはいえ、その考えが正しいのかどうか、自分の目でアメリカ人の家庭生活や信仰態度などを確かめようとしたのです。 2-1.英語力 十河信二は中学生の頃、登校前に早起きしてアメリカ帰りの先生の家で英語を学んだおかげで語学には強くなりましたが、留学生活を送るとなるとやはり現地で英語教師が必要となりました。そして、訪れたニューヨークのYMCA本部で十河に一人の女性が紹介されます。 2-2.ジュヌヴィエーヴ・コールフィールド 紹介されたのは Genevieve Caulfield という、コロンビア大学出身の当時29歳の盲目の女性でした。彼女は14歳のときに病気のために失明してしまいましたが、特別扱いされることを拒んでふつうの人として生活し、記者をしながら日本人に英語を教えていました。そして日本の歴史にとても詳しいことに、十河も大変驚いたといいます。 十河は、コールフィールド女史に下宿先を紹介してほしいと頼みました。すると彼女は十河にこう尋ねます。 「アメリカ女性のファースト・インプレッションはいかがですか?」 「アメリカ女性の立居振舞は嫌いだ。静かな日本女性とは比較にならない」 「大嫌いだというファースト・インプレッションには責任を感じます。あなたが大好きになりそうな家庭を紹介しましょう」 こうして、十河はとある博物学専攻の博士の家にお世話になることになりました。  2-3.絆 コールフィールド女史は後に英語教師として来日し、日本人女性を養子に迎えました。さらにその後80歳を過ぎてもタイやベトナムに渡り盲学校を設立するなど、晩年になっても大変聡明で活発な活動をなさいました。それは大正12 (1923) 年に関東大震災が発生したときにちょうど日本にいて、彼女がタイの留学生を世話したことがきっかけでした。 昭和43 (1968) 年1月のことです。サイゴンから女史の手紙を受け取った十河は、その直後に北ベトナム軍が大攻撃を開始したというニュースを聞いて慌てて電話で安否を確かめさせました。すると、偶然その前日にバンコクに向けて旅立っていたということを知り、十河は「神様の御加護だ」と喜びました。 COQTEZ Shop @ Amazon   「十河信二」 十河信二傅刊行会 「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「不屈の春雷(上) 十河信二とその時代」 牧 久著 ウェッジ 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社 「有法子 十河信二自伝」 十河信二著 ウェッジ文庫

コラム:十河信二とアメリカ(1)

後に第4代国鉄総裁となる十河信二は、鉄道院経理局勤務時代の大正6(1917)年、鉄道事業の研究を主な目的として米国に1年留学することになりました。 1-1.YMCA年次総会 十河は、ニューヨークに着くとホームステイ先の相談のため、YMCAの本部を訪ねました。訪問はちょうどお昼時だったため、食事に招かれ近くのホテルに行ったところ、ちょうどそこでは各国の代表者が集まってそれぞれが報告を行うYMCAの年次総会が行われていました。十河は、そこで突然ある代表から「そこに日本からお客さんが来ているようだから、なにかお話を願いたい」と振られます。 1-2.初めての英語演説 人前で英語で話したことなどそれまで一度もない十河ははじめ断りますが、賛成の拍手が鳴り止まず覚悟を決めて演壇に立ちます。 私は交通機関に従事しているものであります。交通機関の使命は旅客、貨物を輸送するということになっておりますが、本当の使命はそういうことだけではなくて、思想や文明を交流せしめるということでなければならぬと信じております。この席上皆さんから世界各国の社会、経済、文化等に関する生きた報告を伺う機会を与えていただ(き)、感謝に堪えない次第であります。 4,5分の話でしたが、途中何度かつかえて和英辞書を引きながらだったにも関わらず、その場にいた誰一人として笑ったり、窮地に追い込むようなことを言ったりする人はいませんでした。 1-3.ニューヨーク・セントラル鉄道   話を終えて冷や汗を拭く十河に、一人の老紳士が近づきこう話しかけました。 君の話を聞いて実に敬服した。君は鉄道人であるそうだが、自分も同業だ。自分はニューヨーク・セントラル鉄道の副総裁であるが是非自分の鉄道も見てほしい。 総会後、副総裁は十河の手を堅く握り、親切にいたわるようにして自分の車に乗せ、グランドセントラル駅にあった本社に連れて行きました。そして、そこで幹部を自室に呼び集め、十河に便宜をはかるようにと指示しました。さらに、その日から十河の部屋を用意し、パスまで発行してくれたのです。 十河は後に、「いかにも事務的でありながら、そこには慈愛が溢れてい(た)」と書き、示された善意に大変感謝しています。 それから96年後の平成25(2013)年3月19日、十河のレリーフが新幹線19番ホームにある東京駅と、この歴史の舞台となったグランド・セントラル駅が姉妹駅となりました。これも何かのご縁なのかもしれません。 COQTEZ Shop @ Amazon   「別冊 十河信二」 十河信二傅刊行会 「夢の超特急ひかり号が走った 十河信二伝」 つだゆみ著 西日本出版社

コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか

#シリーズ「PEの歴史」は、いったんお休みします。 昭和32(1957)年2月21日。それまで国鉄の車両設計部門は工作局客貨車課と動力車課に置かれていましたが、「臨時車両設計事務所」という名称で本社付属機関として分離独立することになりました。 でも、なぜ臨時だったのでしょうか? 1.表向きの理由 翌年昭和33(1958)年からの「五か年計画」が取りまとめられており、その計画の目的には老朽化した車両を新しいものに置き換えることが含まれていました。ですから、5年間という区切られた時間が終われば、車両の設計業務も一段落することになるのでそれまでの臨時セクションである、というわけです。 しかし、その決定に実はもっと複雑な背景がありました。 2.組織改革の背景と経緯 まず、その頃は初代ブルートレイン車両となる20系客車や、新形通勤電車のモハ90形(101系)電車など、新しい技術を盛り込んだ車両が数多く設計されており、従来の工作局客車課と動力車課の中では組織としてそうした設計業務の増加に効率的に対応するのが難しくなっていました。 しかも、当時の国鉄は本社管理部門の機構簡略化と人員削減を進めており、車両設計にあたる要員が減らされては困るということで小倉俊夫副総裁と島秀雄技師長が話し合って決めたとされています。 By ​Japanese Wikipedia user Rittetsu-Master, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7374232 3.「臨時」と付けた本当の理由 本当の理由は、この組織改編の少し前に起きていた出来事から紐解くことができます。 広軌新幹線に対する調査会メンバーの煮え切らない態度に十河信二総裁がブチ切れた、東海道線増強調査会の4回目の会合(国鉄の歴史(8):国鉄内部の攻防 参照)があったのがその年の1月23日。2月4日の5回目の会合で調査会は打ち切りとなったばかりでした。 この時点では、新幹線が本当に実現できるかどうかという確証はありませんでした。確かに十河総裁は強力ですが、回りに敵も多く、老齢であり持病もある。さらに、技師長職の任期は3年で基本的に再任はないというのが原則であったことからすると、可能性として計画が挫折するリスクがあります。 であれば、島技師長が「少なくとも自分の任期中に夢の超特急は技術的に可能であることを証明する数々の新型在来線車両を、できる限り実現しておきたい」と考えられたとしても不思議ではありません。車両設計部門を国鉄内部から切り離して「車両設計事務所」という技師長直属の組織とすれば、作業を進めるのに運輸省や国鉄幹部からのハンコをもらうための無駄な時間を回避できるというメリットが生まれます。 しかしながら、なぜこれまでの体制を変えなければいけないのかという根強い反発が起きてしまいました。そこで、その名称の頭に臨時と付けた上で前述の表向きの理由となったのです。 COQTEZ Shop @ Amazon   コラム:3系列の国鉄ブルートレイン 「「夢の超特急」、走る!新幹線を作った男たち」 碇義朗著 文春文庫 「国鉄の基礎知識 敗戦から解体まで」 所澤秀樹著 創元社 「ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち」 福原俊一著 JTB 「新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語」 高橋団吉著 deco

PEの歴史(1) : Pacific Electric の誕生前夜

20世紀初頭、「世界最大の電車ネットワーク」と呼ばれた Pacific Electric(パシフィック・エレクトリック)。米国カリフォルニア州で、総延長約800キロにも及ぶ巨大な鉄道網を有する会社はどのようにして誕生したのでしょうか。 1.電気鉄道ができるまで ロサンゼルス市内の鉄道は、1874年に始まりました。その誕生は、文字通りの馬力によるもので、1頭またはそれ以上の馬がオープンベンチの客車を引っ張る形での馬車鉄道でした。1880年代になると、それらの一部はサンフランシスコにあるようなケーブルカーへと置き換えられ、1890年代になるとそれらはすべて路面電車へと変わって行きました。 2.電気鉄道の発展 1890年代前半には、Thaddeus Lowe 教授がロサンゼルス中心部の北に位置する Pasadena(パサデナ)に驚異的な山岳鉄道を作りました。それは、Pasadena and Mount Wilson Railway Company(パサデナ&ウィルソン山鉄道会社)= Mt.Lowe Railway(Mt.Lowe 鉄道)です。 3,000 feet(約1km)で 1,300 feet(約433m)の高さを最大 62% のきつい傾斜で登りきるケーブルカーと、山頂にある Echo Mountain House と呼ばれた観光施設に乗客を運ぶ狭軌(日本の在来線と同じ3ft.6in.=1,067mm軌間)鉄道が含まれていました。山頂には天文台もありました。全長3.57マイル(約5.7キロ)の山岳鉄道は岩山の縁のぎりぎりを縫って進むため、そのほぼすべてがカーブしており、カーブを曲がるたびに乗客の歓声が沸いたそうです。   また、"inter urban"(インターアーバン)と呼ばれる、市内中心部と郊外を結ぶ最初の電気鉄道が誕生したのは1895年のことでした。それは Pasadena & Los Angeles Electric Railway(パサデナ&ロサンゼルス電気鉄道、P&LA)で、当時観光名所であった South Pasadena(南パサデナ)のダチョウ牧場へ乗客を運びました。 3.鉄道会社の乱立 その後、ロサンゼルスとその周辺地域には幾つもの電気鉄道会社が乱立して行きました。そんな中、ある一人の人物がこれらの鉄道会社をまとめ上げるために重要な役割を果たすことになります。   Images of Rail...

コラム:十河信二と在来線

「新幹線の父」である十河信二は、国鉄総裁時代に当然のことながら東海道新幹線の建設を最優先にしました。では、十河にとって在来線とはどのような位置付けだったのでしょうか。 1.日本国という体とその血管 十河総裁は、ある時国会で「総裁は新幹線ばかりやっていて、地方線をつくらないではないか」という質問を受けました。確かに、国鉄の歴史(5):「君たちに夢を」 で取り上げたように、単なる政治的な目的での鉄道路線の建設には反対でした。十河総裁は、こう答えました。 私の尊敬する後藤新平総裁は医者でした。後藤総裁は人間の身体の血管は心臓に近づくほど太くなっている。心臓の周辺が太くなっていることが、端々の毛細血管にとって非常によいことだそうです。だから、東京~大阪の大動脈が太いということは、結局は地方の線区も、それによって裨益します。東海道沿線は、全国総人口の約40%を占めています。工業生産額も全国の60%以上を占める製造工業の中心地帯であります。だからここに、いくら設備投資してもペイすると思います。 2.具体的な方針 十河は総裁は、赤字線の建設を極力避けました。鉄道建設審議会での検討を経て国会が決めたローカル線建設予算95億円のうち、半分は建設を中止しました。そして、そこから捻出した予算を新幹線の建設のために回したのです。しかしながら、国会で決定された予算を国鉄内部とはいえ勝手に別の用途に使ってしまうわけですから、当時の政治家や運輸省から見ればとんでもないことだと思われても仕方ありません。 とはいえ、十河総裁のこのような総合的な判断と実行力がなければ、新幹線を建設することは事実上不可能でした。同時に、予算だけでなく、技術者も在来線から新幹線に回す必要がありました。十河総裁にはこの時点ですでに、いずれ将来ローカル線の輸送需要が減少し、過疎地の主な交通手段は自動車にとって代わることになるだろうという読みがあったのです。それで、国鉄は基本的に新幹線建設に徹するという方針で進みましたが、これが我田引鉄の政治家の目の敵になる理由ともなってしまったのです。 3.建設された新線 十河総裁の時代に全部のローカル線の建設を中止したわけではありませんでした。工事を継続している線、幹線の補強になる線、また客観的に見て将来プラスになると判断できる路線は建設されました。その中には、湖西線、武蔵野線、根岸線などが含まれます。 アイキャッチ画像:By RailRider (talk) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7156917   コラム:臨時車両設計事務所はなぜ「臨時」だったのか 「十河信二」 十河信二傅刊行会

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